親子の日 エッセイコンテスト2016 入賞作品

オリンパス賞
・防水タフカメラ STYLUS TG-860 Tough
オーティコン賞
・ゼンハイザー ヘッドホン HD65 TV
三菱地所・サイモン賞
・1万円分のお買い物券
キョーリン賞
・トリニティーラインスキンケアセット
毎日新聞社賞
・MOTTAINAI傘
円谷プロ賞
・帰ってきたウルトラマン Blu-ray BOX
親子の日賞
・「親子の日」オリジナルグッズ
 
 
オリンパス賞防水タフカメラ STYLUS TG-860 Tough
「届いたやさしさ」長友 和久 熊本県 34歳

僕は二通の年賀状を大切に持っている。
どちらも父が僕宛に書いてくれたものだ。
就職活動がうまく行っていなかった僕は、大学4年生の12月にようやく就職先が決まった。
年を越す前に決まってほっとしたのを覚えている。
正月に届いた父からの年賀状には、祝福の言葉と社会人としての心構えが綴られていた。
喜びと勇気が湧いてきて、希望に満ちた社会人一年目をスタートできた。
その数年後、父はがんで亡くなった。社会人としてようやく自信がついてきた頃だった。
遺品整理をしている時、父の書斎の引き出しから僕宛の年賀状が出てきた。年度は僕が大学卒業の年だ。
そこには、「就職活動に失敗したくらいで何だ!もう一年がんばれ!」と励ましのメッセージが書かれていた。
父は、僕が就職できなかった時のために、もう一通の年賀状も準備してくれていたのだ。
出されることのなかった年賀状から、数年の時を越えて父のやさしさが僕に届いた。
今でも僕は二通の年賀状をよく読む。そして父のように思いやりのある人間になりたいと思うのだ。

 
オリンパス賞防水タフカメラ STYLUS TG-860 Tough
「安心する声」泊 夏希 東京都 24歳

母からかかってきた日は勝ちで、私からかけた日は負け。
1年前に就職で上京してきてから、3日に1度は交わす母との電話。
お互い愚痴の言い合いとなるその電話に、いつしか私はルールを設けるようになった。

初めてのことばかりの仕事に不満が募り、携帯電話に手が伸びることもしばしば。
その時、なぜか「今電話したら負けだなあ」と一瞬躊躇してしまう。
電話で愚痴を散々吐き出した日には「負けたなあ」と変に落ち込んだりもした。

仕事を始めて半年ほど経った頃のことだ。
あまりにも仕事が辛く、帰宅途中すがるように電話をかけた。
数回のコールの後聞こえてきたのは、ここ最近聞いたことのない程楽しそうな声。
うるさいガヤをバックに、「親戚が昇進した」と早口で言う母は酔っていた。
宴会に同席している親戚が代わる代わる電話口に登場し、仕事はどうだと聞いてくる。
3人ほどと言葉を交わした後、私は話の途中だったにも関わらず電話を切ってしまっていた。
電話の後に「負けた」と感じるより何倍もみじめな気持ちだった。

その日から、私は母への電話を辞めた。

2週間後。
仕事以外で久しぶりに電話が鳴った。
画面に表示される母の名前を少し眺めてから通話ボタンを押す。
要件は、なんとも拍子抜けする内容だった。

「新聞に載っているクロスワードパズルの答えが分からない」

2人であれでもないこれでもないと悩んで2時間。
ずっとどこかで感じていた惨めな気持ちは消え去っていた。
毎回「負けた」と思いながらも心が軽くなっていた母との電話。
安心の源は、内容ではなく母の声なのだということに気付いた。

以来、電話をかけるのに躊躇することはなくなった。
今日はどんな話をしよう。
愚痴ばかりだった母との電話が、嬉しかったことの報告手段に変わった。

 
オーティコン賞ゼンハイザー ヘッドホン HD65 TV
「父と丸い地球」山下 さやか 福井県 35歳

「ごめんね。好きな人いるんだ」。
 高校3年の卒業式。3年間思いを寄せていた人に思い切って告白したら、10秒かからず振られました。絶望がとめどなく押し寄せ、涙は夜遅くになってもおさまりません。すると今まで黙っていた父が突然「さやか、明日朝早くでかけるから今日はもう寝ろ」とだけ言いました。次の日、朝の5時に出発し、どこへ行くとも告げられず空港に着いたかと思えば、飛行機に乗り北海道に。すぐさまレンタカーを走らせます。家を出てもう9時間以上経ったでしょうか。
「さあ、着いたよ」目の前の光景に、私は感動で言葉が出ませんでした。太平洋を望む断崖上に立つ真っ白な灯台とどこまでも続く青い海が目に飛び込んできます。この展望台は、室蘭の「地球岬」という場所らしく、まさにここは地球の丸さを実感できる場所です。まるで宇宙から地球を眺めているかのようです。優しい声で父が言います。
「父さんも昔ね、大失恋したときこの場所に来たんだ。やっぱり地球って丸いんだなって思っていたら自然と悲しみが消えたんだ。地球が丸いのはね、悲しみや辛さを吸収してくれるためなんじゃないかな。そして海や大地のエネルギーをそっと分けてくれる。父さんはそう思うよ」。父に言われて気づきました。確かに私のあれだけの悲しみは、自然と穏やかに消えています。さらに、さわやかな風が心の中にまで吹いているのを感じました。
 父の仕事のため、地球岬の滞在時間は30分ほどで、そこから夜中遅くまでかかって帰宅し、父と私の旅行はかなりの強行スケジュールで終わりました。あれから17年以上経ちます。失恋だけに関わらず、生き方全てにおいてその30分が今の私を作り出していることは間違いありません。
「失敗しても大丈夫。この丸い地球が優しく支えてくれている。エネルギーを分けてくれている」父の教えは今日も私を前向きに動かしてくれます。

 
オーティコン賞ゼンハイザー ヘッドホン HD65 TV
「私の父は、かっこ悪い」山口 悠希 神奈川県 26歳

デパートで試食を貰えば、何度も落っことして何回も貰いなおして、
ファミレスでトイレに行けば、間違えて隣のテーブルに座ったりして、
吃音症持ちだから、何度も何度も同じ言葉繰り返したりして。
小さいころから、そんなかっこ悪い父が苦手だった。
私の父は、つまらない。
流行りおもちゃもマンガも知らなくて、
ジョークも言わないし滅多に笑わなくて、
しつけに厳しくて、ベランダに放り投げられたりして。
中学生になったころには、父と顔も会わせなくなっていた。
私と父は、さよならをした。
高校になって、私は母に連れられて家を出た。
狭い部屋に一人でいる日々が続いた。
なんだか無性に父に会いたくなった。
いつも整髪料とタバコの臭いがして、水虫の足が汚くて、
良い所なんか1つもなかったはずなのに。
それでも、思い出す景色はたくさんある。
動物園で肩車してくれたこと。
魚釣りに連れてってくれたこと。
コタツで一緒にお昼寝したこと。
会社から帰ってきて、一人でさみしく晩ごはんを食べていた背中。
お家を出ていく日に、泣くのをこらえていた、しわしわの顔。
私と父は、再会した。
ちゃんと顔を見て話すのが久しぶりで、恥ずかしかった。
父も恥ずかしそうだった。
私は少し太ったのに、父は少し痩せていた。
「元気か」なんて聞くから、なんか涙が出た。
私と父は、たくさん後悔した。
なんであの時もっと素直になれなかったのだろう。
なんであの時もっと優しくできなかったのだろう。
なんであの時、ごめんと言えなかったのだろう。
たくさんたくさん、なんでなんでと後悔して、それから。
私と父は、スタートラインに立った。
過去のやり直しはできないから、ここから始めようと決めた。
過去は水には流れないから、ここから今を作っていこうと決めた。
そうして、たくさんの私と父でありたいと、思った。
私の父は、かっこ悪いし、私の父は、つまらない。
それでも、私は父が、大好き。

 
オーティコン賞ゼンハイザー ヘッドホン HD65 TV
「ままま」荻原 純子 埼玉県 31歳

「ままま」と、私を呼ぶ。
「ま」がひとつ多い。
私を追いかけてくる。おぼつかない足取りで、よたよたと。
あなたは一歳になった。
毎日よく泣き、よく笑う。よく転び、でもきちんと起き上がる。
重い頭をぐらぐらゆらしながら、私にしがみついてくる。

「ままま」
お腹がすいた、とあなたは言う。
私はうなずいて、お米をラップに包んでぎゅうぎゅう握る。
あなたの大好きなふりかけを入れるのも忘れない。
おにぎりをこしらえる私の服を、あなたはぎゅうぎゅう握る。

「ままま」
いただきます、とあなたは言う。
小さい手を拭いて、おにぎりを口元に持っていく。
ふふふっ、とあなたは笑って思いっきりほおばる。
顔中にお米粒がついても気にしない。
食べる、食べる、食べる。時々麦茶もすする。

外はずいぶん雪が降っている。
世界はお米に埋もれたように真っ白だ。
道行く人々が分厚いコートを着込んで白い息を吐く。
私とあなたは、今日はどこへも出かけない。白い雪を見ながら、あなたを膝にのせて、おにぎりをいただく。
「ままま」
お米だらけの柔らかいほっぺをくっつける。
部屋の中はとても温かい。炊きたてのご飯のいい匂いもする。
お米粒をぬぐってあげると、あなたはくすぐったそうにふふふっと笑うので、私もつられてふふふっと笑った。

いつかあなたはその足で外の世界に出ていくのだろう。
頭もぐらぐらゆれない。しっかり前を見て、時に泣き、時に笑うのだろう。
真っ白い雪が降っても、照りつける太陽の日でも。
あなたは私の手を離れ、力強く生きてゆくのだろう。

そのうち、「ま」がひとつ多いことにあなたは気づく。
「ママ」になって「お母さん」になっても、あなたが私の服を握りしめなくなっても、私は炊きたてのご飯でおにぎりを握ろう。
あなたの大好きなふりかけも忘れない。優しいお米の匂いに鼻をひくひくさせるあなたを見て、一緒にふふふっと笑いながら。

 
三菱地所・サイモン賞1万円分のお買い物券
「亡き父の手帳から」直嶋 航 大阪府 52歳

七十七歳で逝った父の遺品に、会社員時代の三十四冊の手帳がある。筆まめな父は、仕事人間で外面が良く、頭の回転が速く冗談好きだが、気は短い人だった。父親を幼くして亡くし、苦学して商業高校を卒業した彼が、一部上場企業で部長になるのを支えた手帳は、仕事に関わる事細かな記述の一方、家族の出来事にも時折触れられており、私の名前と「発熱」という文字を見たときは、眼頭が熱くなった。
父は転勤族であったため、私は四つの小学校に通うはめになった。四年生の春から通った、私にとって三つ目の小学校は、一時間近くの通学路に小さな山、狭い川、田畑が広がり、級友とざくろの実を採り、放し飼いの鶏を追い駆け、ザリガニを捕まえる日々を過ごしていた。
五年生の初夏、父に再び転勤の辞令が下りた。そのことを聞かされた夜、私は決死の覚悟で涙ながらに抗議した。ぼくは行かない、ここに残る、友達は誰も転校などしていない、なぜ自分ばかり何度も転校するんだ、と喉が裂けんばかりに叫び続けた。
手をあげるはずの父は、なぜか声すら荒げることなく、私の眼を見て、静かに話し始めた。なぜ会社は父を転勤させるのか、次に行く営業所で、支店長として何を期待されているのか。どうして転勤を拒否できないか、拒否しないのか。家族はどうして一緒に居た方がいいのか。ひとつひとつ、丁寧に、当時の私に完全には理解できないであろうことを承知で、難解な言葉も敢えて交えて、父は私に説明してくれた。そして、お前には辛い思いをさせて申し訳ないけれど、でも一緒に来てくれ、と懇願するかのように私に言った。私は父に申し訳ない気持になり、小さな声でわかりました、と言いながら父の腕に縋り、声を上げて泣いた。すまんな、という父の声は、今でも耳に残っている。
幾度もの転勤の時期の前後は、父の手帳には空白が多く、記述も簡素である。前任地と赴任地を行き来しながら、貸家を探し、引越しの段取りをつけ、仕事を引継ぎ、挨拶に回り、と諸事に忙殺されていたのだろう。そんななか、泣きわめく十歳の息子に、生来の短気の虫を抑え、静かに諭してくれた父の姿を、今でもありがたい気持ちで思い出す。(完)

 
三菱地所・サイモン賞1万円分のお買い物券
「反面教師」江坂 亮 大阪府 20歳

お父さんを尊敬したことは、1度もなかった。
癇癪持ちで母を困らせ、話はつまらない、体型はだらしない。
なにひとつ見習う点などなく、むしろ、「反面教師」にしていたくらいだ。
僕はお父さんへの反抗として、誰よりも穏やかに生き、話はできる限り面白くし、ストイックに身体を引き締めていた。

でも、僕が大学生になって、一人暮らしをして、周りにいろんな環境下で育って友人たちを見て、気付いた。

僕のお父さんは、僕を誰よりも自由にしてくれていた。
僕の意思を尊重し、やりたいことはやらせてくれ、またなにひとつ僕に強制することはなかった。

そのことを、感謝したことはなかった。当たり前だと思って、気付かなかった。それがどれほど難しいことだと知らずに。
自分が今、楽しく生きているのも、なんの制約も持たせずに、お父さんが自由にさせてくれているおかげだ。
20歳となり、普段全く連絡を取らないお父さんからメールが来た。
「成人おめでとう。まるでダメな親父でごめんな。」
照れ臭いけど、返信をした。

「お父さんが、なにもかも僕に教えてくれました。ありがとう。」

 
三菱地所・サイモン賞1万円分のお買い物券
「泣いた母鬼」服部 恵美 東京都 21歳

都合の悪いことがあると人のせいにするのが私だ。すぐに母と言い合いになって思い切り殴られた時は心底鬼だと思った。学校も退屈であったが、家に帰るのも億劫で生きることにも疲れを感じた子供であり、人から大事にされないのは幼い頃から慣れていた。

誰でも反抗期という経験はあると思うが、私の反抗期は生死を彷徨うものとなった。それは高校生の時。親が外に出させてくれなかったので、家の3階の窓から隣のビルに移ろうと窓から飛び出したら、足が届かなかったのだ。そのまま頭からコンクリートへ転落し、意識不明のまま緊急治療室へ運ばれた。意識が戻った時、あの母鬼が私の前に無表情で立っていた。「なにがあったの。本当に一騒がせな子供だ。」こんな時にも説教だ。辛く痛い中での言葉だったので非常に腹立たしく「出てって」と言い、眠りについた。

退院し少し落ち着いた後、妹とあの事故について話す機会があった。
「お姉ちゃんほんとアホだったよね」
「別に大事になっても誰も気になんかしてないよ」
「アハハ。お姉ちゃんゴキブリより強いから死なないとは思ったよ〜」
ああ、やっぱりか。死ぬ間際になっても家族にも笑われるのかと思った時だった。
「でもママ大泣きしてたよ。」
一瞬耳を疑った。その後しつこく質問したのを覚えている。どんな様子だった?いつどこで泣いてたの?その時はまるで幼い子供のようだった。そのような話は私にとって新鮮なものだった。こんないい歳になっても自分が親から大事にされていることを確認したがっていたのだ。私にとっては母親の涙とは非常に珍しいもので、この妹の何気ない一言はずっと心に染み付いて残っている。

あれから7年経った今。母鬼は今日も怒りつつも、そして私も文句をいいながらも言うことを聞いている。大好きな家族との時間を楽しみながら。

 
キョーリン賞トリニティーラインスキンケアセット
「母が年齢を返上する理由(わけ)」妹尾 千夏 兵庫県 41歳

母は四十を迎えた時、
「人生八十年とするでしょ。そうしたら今年で折り返し。来年の誕生日からは、一つずつ歳を捨てていくことにするわね」
と言った。
「やだぁ、あと何年生きられるかのカウントダウンみたい」
と嫌がる私に、
「そう? でもまあ、来年は三十九歳になるつもりだから、覚えておいてね」
と言うと、ふふっと笑った。
 この原理でいえば、母は現在「十二歳」。孫娘よりも年下になっている。
 年齢を一つずつ返上するようになってから、母は急にイキイキしはじめた。少しでも興味を持ったことには、臆することなく手をのばす。確か一昨年はガーデニング、去年は囲碁だった。今年は子供からの悲願であるピアノに挑戦するという。
「先生ったら、ドレミファソラシドの指使いの練習ばっかりさせるのよ。わかるんだけどね、私、この歳からピアニストになりたいわけじゃないし、二年も三年も基礎練習をしていたら、曲弾けるになるまでに死んじゃうかもしれないって焦るのよ。」と笑う。半分冗談、半分本気なんだと思う。
 そうしているうちに、私にも「歳を捨てはじめる年齢」がやってきた。ここまできて、ようやく気付いたことがある。それは 
 「歳を一つずつ返上する」
と言った時の母の思いだ。
 母はただ、四十代以降の年齢になることに抵抗があっただけなんじゃないだろうか。もっと新しいことに挑戦したいし、できればずーっと若くいたい。これが女心というものだ。
 自称十二歳の母を、四十の娘がおいかける。母が残りの時間を考えて行動しているのか、女心で年齢を返上しているのかはわからない。ただわかるのは、好奇心旺盛な母は、ユニークでかっこいい自慢の母だということだけだ。

 
キョーリン賞トリニティーラインスキンケアセット
「私に2時間時間ができたら」楢原 香織 福岡県 34歳

私に2時間時間ができたら、ベッドに1人大の字になって寝たい。その前にお風呂に入って、首までゆっくりお湯に浸かって10分間何も考えずに目を閉じていたい。
でも、せっかくだからお出かけしよう。ニットを着てネックレスをつけて、小さなバッグを持って少しかかとの高い靴を履いてもいいかも。
お昼はうどん屋さんに入って一味唐辛子をたっくさんかけてあっつあつのうちに食べたいな。激辛の担々麺を食べに行ってもいいかも。でも、せっかくおしゃれして行くのであれば、カフェでケーキを食べてもいいな。今日は上のいちごも中身のフルーツもクリームだって誰にも邪魔されずに食べれるもの。
でも。
でも、なんだか両手と胸の辺りが寂しい。
もし、私に2時間時間ができたら、ママに2時間時間ができたら、みんなで一緒にお出かけしようか。
お昼はうどんにしよう。みんなで分け分けしてからね。こぼさないようにちゃんと食べてね。はいはい、お茶持ってくるね。
食べたら公園に行こう。Tシャツとズボンとスニーカーでね。だっこひもも忘れずに。みんなで手を繋いで行こう。
 今日はどろんこになってもいいよ。タオルにティッシュにお茶、ママのバッグには何でも入ってるからね。お風呂のスイッチも押して行くから大丈夫。ママがパパパッと洗ってあげるから。
でも、どろんこになる前にいつものお店でケーキを買って帰ろうか。ママの選んだいちごのケーキもおいしそうでしょ?じゃあ今日は特別に、ママのクリームは上のお兄ちゃんに、いちごは下のお姉ちゃんに、中身のフルーツもほじってあげるから。一番下のあの子にはケーキ味のおっぱいを出してあげるから待っててね。ママに2時間時間ができたら、まだまだ一緒にいてくれる?今日も寄り添って寝ようね。ギュウギュウのベッドで。

 
キョーリン賞トリニティーラインスキンケアセット
「生きる喜び」伊藤 佳奈美 東京都 40歳

父は絵に描いた通りのフツーの会社員だ。毎朝7時に家を出て、昼は社食の安いそばをすすって、家に帰れば母に小言を言われて、家の隅に追いやられるような人だった。
 休日は庭の草取りが父に与えられた仕事だった。作業の合間に古いバドミントンのラケットと羽を持ち出して、父と私で下手な打ち合いをよくしたものだった。普段はあまり話さない父を相手にどうしてそんなことをしていたのか、当時の自分の行動も不思議だが、休日のバドミントンは私が高校2年生になるまで続いていて、それが父と私の静かな会話だったのである。
 私が高校3年生になると、いよいよ進路の問題に直面し、バドミントンどころではなくなった。毎週のように予備校の模試を受けてはD判定だのE判定だの、アルファベットに心を振り回されるようになり、希望の職業、将来の夢などという大仰な言葉に私は追いつめられ、日に日に生きていることがめんどうに感じるようになった。私は何がしたくて生きているのか。生きていて楽しいのか。そんな思いを抱えていた私は、ついに父へこんな言葉をあびせた。
「お父さんは毎日同じような生活で、安いお給料しかもらえないのにせっせと働いて、生きていて何が楽しいの?」
父は怒るわけでもなく、諭すわけでもなく、唐突な質問に目をパチクリとさせながら「かなちゃんとバドミントンをすること」と当たり前のことのように答えた。
 その答えはあまりにも意外な言葉だった。私は自室へ戻り、静かに泣いた。生きることの意味に悩んでいた若い自分にとって、父の言葉はとても嬉しかった。そして、高級車に乗ったり、ゴルフに行ったりするような友人の父たちと比べてかっこよくもなく、甘美な優越感もないと思っていた父から生きるうえで大切なことを教わったように思った。
「あなたがいることが私の生きる喜び」親子間だからこそ、父の言葉は私の自信となり、生きる力となるのだ。
 そんな父と会えなくなって何年が経っただろう。膨大な仕事に追われ、職場とアパートの往復の日々を過ごす私がこうして胸を張って生きていられるのは、父の一言が今でも私の中に息づいているからなのである。

 
毎日新聞社賞MOTTAINAI傘
「ころもがえにちょうせん!」堤 葵 東京都 9歳

学校の緑の広場がプールにへん身するともうすぐ夏です。
でも、たんすの引き出しを引いてみると、冬のふくがフワフワモコモコしています。
わたしは、ころもがえを自分でやってみることにしました。
お母さんは
「自分でやってみるのは、いいことだね」とにっこりしてくれました。
まず、たたみかたをおしえてもらいました。
左右同じにたたみます。しわができないように、手でピシッとおしてかさねます。
引き出しの中は、まだ夏といっても、はだざむい日があるかもしれないから、うすいながそでを三ちゃくくらい、はじっこにおいてその横にたくさんはんそでをおいて、ちょうどいい組み合わせにします。
さいごに冬のものを上の階のたんすに入れました。
かいだんを何度ものぼりおりして、けっこうつかれました。でも、すべておわった引き出しを見てみると、きれいにたたんだようふくがならんでいて気持ちよかったです。
にじみたいにカラフルでウキウキしました。
わたしがころもがえをはじめると、弟のじんが
「ぼくもやりたい」
と言いだしたので、わたしがおかあさんからおそわったことを、じんも見て一つずつまねながら、お気にいりのアメリカこっきのポロシャツを、ていねいにたたんでいました。
小さくなったふくは、いとこのまなちゃんにあげるため一つのふくろに入れました。ギリギリきられるふくは今年がんばって何回もきようと思います。
ふくには、一枚一枚思い出があって、お母さんにやり方をおそわりながら、たくさんおしゃべりをしました。
冬のころもがえは、一人でできるようになりたいです。

 
毎日新聞社賞MOTTAINAI傘
「写真が伝えたこと」植木 詩織 鹿児島県 45歳

 私の両親はとてもやさしかった。私は怒られた記憶がほとんどない。成績が悪い時も、母は「私の子だから勉強はできないであたりまえよ」と笑い、父は「人生はひとつの道だけじゃないぞ」と言った。両親はどんな時も私の味方だった。私はそんな親に甘え、どちらかといえば親不孝の、頼りにならない娘に育った。
 私は子供を作る気がなく、それをよしとしてくれる夫と結婚した。正直子供が苦手だった。おむつかえ、ママ達とのつきあい、小学校でのPTA活動、自分がそんな煩わしいことをするなんて想像ができなかった。ところが、そんな私が突然授かってしまったのだ。晴天の霹靂。私は42歳になっていた。年齢を考え悩んだが、授かったならそれが運命だと覚悟を決めた。そして高齢出産の星などと周りからはやされながら、なんとか無事に娘を出産した。
 産まれてみれば娘は本当にかわいく、おむつかえも平気だった。この子が幸せに生きていけますように。そんな祈りにも似た感情が湧き起こり、自分でも心境の変化に驚いた。そしてたくさんたくさん笑顔の写真をとった。娘の笑顔を見るのが幸せだった。そんな折、自分が小さい頃の写真を見る機会があった。写真の中の私は、とても幸せそうに笑っていた。
 突然胸が苦しくなり涙があふれた。どの写真も、自分が娘をとった写真にとてもよく似ていた。寝返りの写真、お座りの写真。きっと「詩織ちゃん!こっちむいて」「すごいぞ!できたできた」なんて言いながら写したんだろうな。写真から親の気持ちが手に取るように伝わってきた。当たり前にありすぎて、親の愛情なんて意識したことがなかった。反抗期になると自分ひとりで育ったかのようにふるまった。でも小さい頃はおむつを替えてもらい、毎日お風呂にいれてもらい、ごはんを食べさせてもらい…やさしく世話をしてもらったんだな。今生きていられるのは、まぎれもなく両親のおかげだ。この歳でいまさら恥ずかしいが、感謝の気持ちでいっぱいになった。そして、何の取り柄もない私が、何となくうまくいくだろうと根拠のない自信をもって過ごせているのは、どんな時もそのまま私を受け入れてくれた親の愛情が、潜在意識の奥深くにベースとして存在しているからだろうな、そんなことを思った。
 私も夫も、いつまで娘のそばにいてあげられるか分からないが、一緒にいられる間は空気のようにたくさんの愛情を、いつの日か、自分は本当に愛されてたんだなぁと実感でき、力強く生きていける足場となるような愛情をそそいであげたいと思う。

 
毎日新聞社賞MOTTAINAI傘
「憎まれているんよ。」今村 達哉 大阪府 27歳

母の声が聞こえてきた。かすかに、だが、確かに聞こえてきた。
幼稚園の同窓会、酒の席だ。声が震えている。泣いているのか。
母が泣くことなど滅多とない。酒が入って感傷的になっているのか。
 成人式が終わり、子供だけでなく、親も集まっていた。母にとっては久しぶりに会うママ友は心を許せる存在だったのだろうか。
 パティシエになった友人もいた。スポーツで高校に行った友人は故障したと笑っていた。昔好きだった女の子は働いているキャバクラのオーナーと結婚するらしかった。
 両親が離婚したのは私が高校生の頃だ。父と僕と弟で一緒に暮らしたが、父が家の中で暴れるようになった。中学一年生をしていた弟は不登校になった。高校でも引きこもり、大学でもゲームをしているだけだった。私が浪人した夏、父から離れた。 私は高校一年生の頃、テニスの大会で3位に入賞した。親子関係のストレスは才能と努力を無に帰すようだ。私はPTSDとイップスになった。試合に集中できない。手首が硬直し初心者より下手になった。得意だった勉強もできなくなった。忘れたいことを忘れられず、覚えたいことを覚えられないようになっていった。 就職活動を迎えた。自己分析が必要だという。昔の記憶を呼び起こす。私はうつ病を発症した。多いと思っていた友人はみんな離れていった。そんなときでも母だけは側にいてくれた。なんとか勉強はできたので大学院に進学した。自主的に研究ができるほど、生きることに一生懸命になれなくなった。もう昔のように未来を描けない。それでも母は私の味方だ。「あんたの好きにしたらええんよ。」そんな言葉をかけてくれる.
 「いつもありがとうな」
 人の安全を守る仕事をする決心ができた僕は、この父親と母親がいたおかげだ。
 先月、私は27歳の誕生日を海外で迎えた。国連で家庭内暴力に苦しむ人を支援している。

 
円谷プロ賞帰ってきたウルトラマン Blu-ray BOX
「ママを守るんだ!」小林 正和 埼玉県 38歳

 先日、急遽三日間の出張が入り、家を留守にすることになった。ただ妻が病み上がりで、少し心配だったので、僕は出発前夜、息子の颯太(そうた 5歳)にあるお願い事をした。
「ママに何かあったら、颯太がちゃんと守るんだぞ。男の子なんだからな」
もちろん冗談なのだが、息子の反応を見てみたかった。
僕がそう言うと、颯太は一瞬ポカンとしていたが、「わかった」とでも言いたそうな力強い表情をみせ、唇をかみ締めた。

翌日、出張先のホテルで横になりながら妻に電話を入れた。
「おい、どう? 大丈夫か?」
「私は大丈夫なんだけど、ねえ、ずっと颯太が私のそばから離れないんだけど、あなた何か言ったの?」
開口一番不思議そうに質問された。僕は一瞬何のことか分からなかったが、颯太とした約束のことを思い出した。
「しかもウルトラマンとゼットンの人形持って。ずっと離さないの」
ママを守る、そのためにウルトラマンとゼットンの力を借りるんだ! 同じ男として、息子の思いはすぐに理解できた。
いいぞ、颯太、それでこそ息子だ。妻は不思議がっていたが、僕は息子の事が誇らしく思えた。
結局僕がいない三日間、颯太はずっとウルトラマンの人形を持って、ママの傍らにいてくれたらしい。

 後日談がある。実家に帰って母にその話をした。
「颯太君はたくましいねえ」
「泣き虫だけどね」
「それにしても、やっぱり親子だね」
「え?」
「あんたも小さいころウルトラマンの人形持って、妹をいじめた子と喧嘩したことあったじゃない」
「は?」
30年前の自分もウルトラマンの力を借りていたらしい。少し赤面したが、親子だからしょうがないかと思い、とりあえず照れ隠しに寝ている颯太をこちょこちょしておいた。枕元には相変わらず無造作にウルトラマンとゼットンが置いてあった。

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「優しいお父さんへ」尾方 志帆 熊本県 18歳

私の父と母はよく他愛もない事で喧嘩します。母は矛盾していることが多く、そんな母への文句では父と気が合います。そんな父ですが、私がよく喧嘩をする相手は実は父です。
小学校高学年のころから父に反抗するようになった私は口喧嘩をするようになりました。
相談をしても「やられたらやり返せ」しか言ってくれず女はそういう訳にはいかないのだと意見が違いその度に喧嘩をしました。
そんな日々が続いて5年後の春、私は中学の卒業を目の前に控えていました。卒業式には親への感謝の手紙を読むことになっており、私はその内容を考えていました。その時、私は床に物がぶつかったような小さな傷を見つけました。これは何だろう?と思い返していくと、それは父が怒って物にあたった時の傷だったことを思い出しました。そして今まで私が言う事を聞かなくて何度も怒らせ、困らせたことが次々と浮かんできたのです。父は人に手を出さない分、物にあたる性格でした。そのころ人間関係で悩んでいた父に対して私はどれだけ迷惑をかけたのだろうと思うととても悲しくなりました。そしてその思いをこの機会に言ってみようと思いました。
当日、私は泣きながらではありますが、気持ちを言うことができたのですが、顔を上げて見てみると、父が涙を流していたのです。普段、感情をあまり出さない父の涙を私が見たのは初めてでした。父はごまかすように私の頭をポンポンとなで教室に戻るように急かしました。その仕草に私の涙腺はさらに緩み涙が止まりませんでした。あの手の温かさを思い出すと今でも涙が出てくるのです。そんな優しい父とも、一緒に過ごせるのはあと残りわずかです。今でも口喧嘩は耐えませんが、以前とは少し違うような気がします。
「ありがとう」が素直に言えない私ですが、感謝の気持ちを忘れずに残りの日々を大切に過ごしたいです。

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「未来への二人三脚」保田 健太 神奈川県 21歳

平成六年六月十三日、天使は大きな荷物を背負って誕生した。僕には全身に運動神経の麻痺があり「一生は話すことも自分で何かすることも出来ない。」と医師に宣告を受けた。母は目の前が真っ暗になり号泣した。でも負けたくなかった。そして「この子を自立させるまで絶対に諦めない!」と僕を抱き締めた。
ここから悪戦苦闘の日々と僕達の二人三脚が始まった。神経の麻痺は怪物だった。感覚が分からなければ訓練が進まない。自立への道は至難の業だ。それでも、人間の底知れぬ力を信じて一つひとつ立ち向かった。
その後、数々の奇跡が起きた。僕の中で一番の勲章は、漢検三級に合格したことだ。これには医師も驚嘆した。苦労したのは、鉛筆を握ること。直線や曲線・止めやはねやはらい・消しゴムなどで、欄に記入する時は息を止めて書いた。
小学校入学時から毎日三時間文字練習し、小五で大きな字をテストに書けるようになり、中二から漢検に挑戦し始めた。
十級から四級まではスムーズに合格できたが三級で挫折した。精一杯努力して書いた字が認められなかったからだ。そんな僕の心を繋ぎ合わせてくれたのは「成長のチャンスだよ。」という母の言葉だった。そして体幹を鍛え続けた。
だが二回目も落ちた。僕は砂漠に置き去りにされた気分で、途方に暮れた。そんな僕に母は「ここで諦めたら今までの努力が水の泡だよ!自分で決めたことは最後までやり通せ!」と叱咤激励した。悔しくて奮起した僕は、腹筋五百回を熟し、合格を手にした。
僕と母は譲れない想いをぶつけ合い、涙のエネルギーを笑顔に変えた。言葉では語り尽くせない、壮絶な戦いから生まれた絆だ。
現在も自立訓練を続けながら、共生社会やバリアフリーをテーマにボランティア活動をしている。僕の背負った荷物が、少しずつ幸せに変わる、そんな未来を信じているから!

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「母は歌う」長崎麻比子 埼玉県 43歳

私の母は、いつも歌っていた。
朝、窓をあけ空にむかって歌い、ご飯を作りながら歌い、掃除をしながら歌い、犬の散歩をしながら歌い、テレビを見ては歌い、夕焼けを見ては歌う。しかもそれは、鼻歌なんかではない。
声量もマックス、歌詞も音程もミスなく、かなり本気で歌う。
日々、お母さんコンサート開催中なのだ。
レパートリーも豊富に、童謡、合唱曲からイタリア歌曲まで、リクエストがなくても歌う。
本人は、いたってご機嫌だが、子どもの頃は正直、大迷惑だった。

スーパーで野菜を選びながら、コンサートばりに歌い上げる母を、同級生に見られるのは、とてつもなく恥ずかしい。
「かっこ悪いから、歌うのやめてよ」私がそう言った時の、母の顔を今でも覚えている。
あれから、30年以上たっただろうか。70をすぎた母は、まだ歌っている。流れる月日のなかで、母もずいぶん年老いた。足も遅くなったし、背中も丸くなった。楽しいことばかりでは、なかったはずだ。胸が張り裂けそうで、歌えないような日々もあっただろう。
でも、母は今日も歌う。そして私はいま、歌う母がたまらなく好きだ。

もうすぐ、母がレッスンに通っている、声楽の発表会がある。大きな花束を持って行こう。写真も撮ろう。そしてその優しくて、のびやかな歌声を、いっぱいいっぱい、感じようと思う。

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「今日も母ちゃん発進!!」山﨑 理恵 山口県 32歳

 子ができた、とわかった時、嬉しさより先にわいた感情は不安だった。
私は幼い頃、母を病で亡くしている。母を想う時、頭に浮かぶのはおいしい料理に手作りの服、そして母の笑顔。私にはほど遠いような「賢母」の図だ。私がそうなることなど、永遠にない。そう思っていた。そして私よりも早く両親をなくした夫は「父親かあ」明らかにイメージできていないようだった。
しかし、十月十日は予想以上に早く、更に息子は予定より半月以上早く産まれてきた。「お母さんがんばって!!」と心の準備も不十分なまま迎えた陣痛は激痛で、もうお母さんか、と他人事のように思った。けれど「元気なお子さんですね」と初めて子をみた時、何かを想うより先に、まっすぐ涙がでた。母の顔が浮かんだ。夫は「あー」とか「ひゃー」とか心の高鳴りがそのまま声になっていた。
「新しい家族の始まりですね」と看護士さんが言った時、夫は顔をぐしゃぐしゃにして泣き出し、私もまた涙がでた。ただ、幸せだけが体にまとわりついた。

それから一年、急スピードで成長する息子は今、家中走り回っている。目を離したほんの一瞬でたんこぶを作ったり、大泣きしたりする。親とはこんなに大変なのか、が私と夫の本音である。 …けれど、それがすごく楽しい。毎日、小さな幸せがゴロゴロしていることに気づく。誰かから「お父さん」「お母さん」と呼ばれるだけでにやにやし、子供の笑い声につられて大笑いしてしまう。私達は、子供を前に時折はっきり気づくのだ。自分達の中にはちゃんと、両親が生き続けていたことに。私達はずっと、親子の輪にいて、今またひとつの輪を作っていることに。
…息子よ、私達を親にしてくれてありがとう!
いつか本気でウザがられる日まで、彼を抱きしめてやろうと思う。
さあ、今日も母ちゃん、発進!!

 
親子の日賞「親子の日」オリジナルグッズ
「私のガソリンスタンド」中島 さや香 長崎県 30歳

「離婚して仕事も辞めて、実家に帰ろうと思う」東京の高層ビルに囲まれたテラスで、コンビニ弁当を広げながら電話でそう告げた。
母は「ちょっと待って、お父さんに代わるから」と言い、電話を受け取った父は「もう一度よく考えなさい」と言った。
もう一度よく考えた結果、私は離婚し、高校生以来の田舎での実家暮らしを始めた。

実質十年間東京で生活していたので、家族との暮らしは最初はぎこちないものだった。風呂の時間を融通することや、帰りが遅くなる時には一言伝えることなど、些細なやり取りが面倒だった。
しかし数か月も経つとそんな生活にも慣れ、「お皿洗うよ」とか「車出すけど買い物行かない?」といった私なりの親への気遣いもできるようになった。

ある日の夕食後、母と二人で恒例のガールズトークを繰り広げていたとき、私は彼氏ができたことを打ち明けた。地元は同じだが、仕事の都合でしばらく東京で暮らすことが決まっている人だ。彼と一緒に暮らすためには私が上京しなくてはならない。しかし、実家暮らしで改めて親のありがたみを感じた私にとって、娘の私がずっと両親のそばにいることが一番の親孝行であるとも思っていた。
そんな気持ちを正直に伝えたところ、母は一言、
「ここはガソリンスタンドだよ」
と言った。
「どこであろうとあなたが幸せで暮らしているならそれでいい。東京に行って、また疲れたときには帰ってくればいい。この気持ちはお父さんも一緒よ」
私は少し照れくさい気持ちで、小さく「ありがとう」と呟いた。

短かった実家暮らしは最高の充電期間となり、私は今、再び東京に行く準備をしている。自分のためだけではなく、誰かのために生きるということを、もう一度私なりにやってみたい――…。父と母というガソリンスタンドを経て、ようやく沸いてきた未来への明るい希望。補給してもらったこの温かい気持ちを、今度は彼の元へ届けよう。