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オリンパス賞オリンパスμ_Tough
先日、私は母の髪を洗い、背中を流しました。女親にとって、息子である私にそれをさせるのは、抵抗があるというか、申し訳なさがあるというかで、なかなか頼みづらいものだったようですが、やはり母自身、よく洗えないことが嫌だったようで、初めて私に頼みました。頼まれた私、もちろん断る理由もなく、袖と裾を捲り浴室に入いりました。
そこにあったのは、痩せて小さくなった母の背中。「親父の背中を流す」という話はよく聞きます。小さい頃から見て育った親父のその背中は、きっと大きいのでしょう。でも、親父のいない私が見て育ったのは、母のこの背中。どんなに痩せて小さくなっていても、私にとっては、他の誰よりも偉大な背中なのです。
溢れ出そうになる感情を、必死で押し殺しながら洗いました。あいにく、人の髪を洗うことを生業としているわけではなく、また「お背中流しましょうか?」などという機会もない私、なかなか上手くは洗えないものです。「かゆいところない?」と、どこかで聞いたようなセリフを言いながら、ただただ一生懸命洗いました。
泡のついた髪と背中を綺麗に洗い流し、母に終わりを告げ、私が浴室から出ようとすると、その綺麗になった背中越しに「ありがとう」と母。「はい、はい」とだけ答えた私。
今までに、私が母から受けた恩の数々を考えれば、背中を洗い流すことぐらい、全然大したことではない。だから、本当は感謝などしてもらわなくても構わないのです。寧ろ、こういう機会を持てたことに、私の方が感謝したいぐらいなのですから。
でも、私は「ありがとう」なんて照れくさくて、とても言えそうにないので、また、背中を流させてください。「お背中流しましょうか?」が、私から母への「ありがとう」の代わりなのです。
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当時私はロサンゼルスに赴任していた。早朝に、日本からの国際電話で起され、
寝ぼけまなこで受話器を取ると、母の親友からだった。
「お母さんね、若年性アルツハイマーになっちゃったの」
それはそれは、あまりにも唐突で衝撃的な宣告だった。私が不在の4年間に何が
起こってしまったのだろうか。
「これからは、毎日介護生活で仕事も辞めなければいけないだろう」
「大好きな海外旅行だって行けない」
「子供を出産し育てる事はできるだろうか」
次から次へと絶望的で暗澹たる思いが迸る。
それよりも変貌した母を見るのは怖い。鬱念をかかえて帰国した私を、母は空港
で出迎えてくれた。
ニコニコと私を見上げ、少しおどおどした様子で、「お帰りなさい」と一言。
私はおそるおそる、色々な事を尋ねてみた。
どんな生活を送っていたのか、母の軌跡を辿りたい一心で。母はどれ1つとして
まともに答えられない。あれほど饒舌で快活だった母が。
最初の仕事は、家の中の大掃除。片付ける事の出来なくなった母の家は、ごみ屋
敷そのものだ。少しづつ母の生活の断片が見えてくる。記憶力が減退していた母
は、所々にメモを書き残していた。
「通帳は、赤い椅子の中。印鑑は玄関の引き出し。望への国際郵便を5月15日発
送。望の帰国日6月20日。望の誕生日8月15日・・・」
母の心の中心はいつも私であった事。
薄れ行く記憶を繋ぎとめる為に、残したい言葉をたどたどしくも綴ってくれた事。
母の私への思いがじんわりと伝わってきた。私がここで母を放棄するなんて到底
できやしない。いつまで続くか分からないが、母との2人3脚の生活を終点駅まで
乗り継ごうと心に決めた。失われた4年間は甚大だが、これからその2倍、3倍の
時間をかけて、母の空っぽの記憶と私との距離を埋めていきたいと思うから。
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幼いころ、父が家にいる休日が嬉しかった。
頑固で真面目で働き者。形に表すと正方形、といった感じの父。
なのに、休日はバラエティー番組で大笑いしたり、マンガを読んだり、柔らかな四角形の表情を見せる。
休日、テレビを見る父のベッドにもぐりこむのが、たまらなく好きだった。
交わした言葉は覚えてないけど、父の横には必ずコーラがあって、寝床のクーラーが効きすぎていて、父の体温がやたらあったかくて、ドア越しに、母の掃除機をかける音や、バタバタと廊下を行き来する足音を聞いているとひどく安心した気持になったのは覚えている。
私は形に表すと歪んだ丸。真面目とか我慢とか、言葉を聞くだけで尻込みしちゃう。
直線で書いた四角い父と歪んだ丸の私、不思議と馬が合ったのはなぜだろう。
私が、歌手になりたいから大阪に行く、と決めた時、一番言いにくかったのは父だった。でも、どこかで父は許してくれるんじゃないか、そうも思っていた。
反対は、なかったように思う。決めたら進め、と、後押ししてくれた。
二年後には実家に戻り就職。そして一年で仕事を辞め、また大阪へ。ただひたすらやりたいようにやってきた。
父の感覚からすれば、理解をとうに超えているだろう。今の私の生き方は父にどう映るのか。定職につかず、目指している生き方も、うまく伝えられず。
それでも毎年誕生日の朝、誰よりも早くメールをくれる。「あなたの人生に幸多かれ」と。
父は、私のために心を変えてくれているんじゃないか、父の理想とはかけ離れたところにいるのに、いつも応援していてくれる。自分の想いは一言も言わず。
誰よりも頑固なのに、芯の強い人なのに、家族を思って、自分を変えることのできる父を、本当に強い男の人だと思う。
私はその父に包まれて今日まで生きてきた
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隣町に、今はもう潰れてない唯一のデパートがあった。
そのデパートは、幼い頃、僕が母とゆっくり話をする時間を与えてくれた「魔法のデパート」だったような気がする。
うちの両親の仕事は「床屋」だ。店舗兼住宅で、僕が幼い頃は忙しくて、夜の10時すぎまで仕事をしていることがざらだったし、学校が休みの日曜日にも、他の友人達のように、母に、どこかへ遊びに連れて行ってもらった記憶はない。
ただ風邪をこじらした時、近所に小児科がなく、母が隣町の大きな病院まで連れていってくれた。その帰り、決まって、そのデパートの最上階にあった大食堂で「チャーハン」と「クリームソーダ」を二人で注文した。
熱で苦しいはずなのに、この時とばかり、母に、学校のこと、友達のこと、幼稚園に通っている妹のことなど、いろんな話を夢中でした。頭の中が、ぼぉーとしているのに、母の笑った顔が見たくて一生懸命しゃべった。
きっと、母もこんな時ぐらいしか、僕の相手をしてあげられないと思って、多分「お店」では、お客さんが大勢待っているのに、僕がしゃべり疲れるまで、ニコニコ笑いながら聞いてくれていた。
注文した「チャーハン」と「クリームソーダ」には、二人とも、一口か二口ぐらいしか、手をつけていなかったと思う。でも、そのアンバランスな「味の組み合わせのハーモニー」はいまでも忘れられない。
72歳になった母は、今でも現役で「お店」にでている。今度は、僕が母の「話」をゆっくりと聞いてあげる番だ。
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「あっちゃんなら大丈夫や!」
母のこの言葉に何度助けてもらったことだろう。
二十数年前、私はクイズ番組の収録のため大阪のテレビ局に来ていた。
初めてのカメラや照明に動揺し、完全に平常心を無くして一度もボタンを押せずにリハーサルが終わった。
スタジオ横の公衆電話から実家へ取り乱して電話をかけると、母が鷹揚にこの言葉をかけてくれた。なぜか不思議に心が落ち着いて「やるだけやってみよう」という気持ちになり、思い切ってボタンを押していた。そして、次々と答え続け、優勝して海外旅行までゲットしてしまったのだ。
その後も不器用で何でも体当たりをしすぎる私は、仕事や子育てなど いろんなことに悩んだり落ち込むたびに、この言葉を胸に何とか乗り越えてきた気がしている。
子供のころ、丸い小さい卓袱台にのりきらないほどの手料理と母の笑い声で家の中は明るかった。
夏になると、職人の父の仕事場へ冷凍室でキンキンに凍らせたおしぼりを日に何度も運んでいた母。
自慢のちらし寿司をご近所に配るエプロン姿。
なんでもない日々の映像が全部宝物になって心の中に詰まっている。
娘や孫たちに、目に見える財産は残してやれそうにないが、手料理の思い出と心の支えになる言葉を私も残してあげられたらと思う。
天国のお母さん!魔法の言葉をありがとう!
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「いい加減にしろよ!」
胸倉を掴まれた瞬間、私はギョッとし、それから自分が一気に老け込んでいくような気がした。それまで言葉で反抗されることはあっても、手を出されることは一度もなかった。ちょっとした諍いで女房を殴ろうとする私を息子が制した。
「オフクロの一人ぐらい、俺が面倒見るぞ」
私の完敗だった。コイツ、いつの間にかすっかり一人前になってやがる――胸にほろ苦いものが込み上げて来た。
幼児の頃、難病で生死の境を彷徨った息子。
「パパ、僕、痛くても我慢するよ」
ストレッチャーで手術室に運ばれるときの土気色の顔を私は忘れたことがない。
長い眠りから目を覚まして、「ここはどこ?」と、息子が小さな声で囁いたとき、私は思ったものだ。
<俺はコイツに何も望まない、生きているだけで親孝行、それで十分だ>
長じるに従って、人に大甘と言われようが、息子の好きなように道を選ばせた。高校入試のときも、ミュジシャンになりたいと言ったときも。
「三十歳まで俺の好きなようにさせてくれ」
三流の高校に進学し、仲間とバンドを結成、卒業後は働き蟻と歌って踊るキリギリスの掛け持ち――真昼間から夢を見ている息子。
「分かったから、もう手を放せ」
女房への憤懣はかき消え、大人しくなった私と、息子の激昂に面食らっている女房を交互に見ながら息子が諭す。
「オヤジはもっとオフクロを大事にしろよ。オフクロもオヤジを思いやれ、外で働くって大変なことなんだからな」
心の内で拍手をしているバカなオヤジ。
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3月11日、大地震、津波それに伴う原発事故にみまわれた。避難を余儀なくされ、友達と離れ離れになるケースも珍しくなかった。
原発から60キロも離れたこの地も放射線の影響が忍び寄り、物流が途絶え、スーパーやコンビニの棚から食料品がまたたく間に消えた。また断水となり、水を求めて役所の前に並んだり、お寺に井戸水をもらいに行ったりした。大きな容器に水をくんではクルマに積む作業を毎日くりかえした。娘は小6、息子は中3で高校受験を控えていた。
「避難区域になっていないのに引っ越ししている人がいるけど、うちはどうしようかね?」と尋ねてみると、息子も娘も首を横にふった。
「このままがいいよ。住み慣れたとこが最高」
「わたしも友達と別れたくないから」
そう言いながら重い水を車に積み込んだ。
いつの間にやら子どもたちは、たくましくなっていたようだ。
兄は卒業式を無事に終えていたが、23日の娘の卒業式は中止になった。娘は気の毒なくらい気落ちした。式はなくなったけれども、「目に見えない」放射線なんかに怯えてばかりいないで、優しさや思いやりといった「目に見える」モノを積み重ね、希望や勇気に変えられる気概を身につけられたら、それは立派な卒業といっていいのではないか。
歌うことが大好きな娘は「旅立ちの日に」を毎日のように練習していた。卒業式がなくなった23日、僕は「旅立ちの日に」を歌うことを提案してみた。娘の透き通った歌声に僕の野太い声がからみつくような歌声になったが、歌い終わると娘の口元に笑みが浮かんでいた。
笑顔もない、季節の色も感じない、のっぺらぼうだった世界に彩が戻ってきた。
わが子らよ、この千年に一度といわれる未曾有の現状を丸ごと受け入れ、人の痛みや悲しみをわかち合える人になってくれ。自らの未来を探り当て、将来像を描いていってくれ。僕は、歌の余韻にひたりながら願いをかけた。
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初めての出産に私は何の感動も覚えなかった。分娩台で産まれたばかりの娘の顔を見た時「あーやっと終わった」という安堵は感じこそすれ、「産まれて来てありがとう」などといったロマンティックな感情はこれっぽっちも湧かなかった。
生後数ヶ月経っても、私の中に母性は芽生えなかった。どこかしら人様の子供を預かっているような感覚で娘に接していた。娘の寝顔を見ながらよく思ったものだ。どうせいつか親元を離れていく。親子といえども別の人間。彼女の人生に深入りするまい、と。
生後6ヶ月が経った頃、たまたま受けた検査で私に乳癌の疑いが見つかった。様々な検査を繰り返し、いよいよ結果がクロなら癌確定という検査の結果を待つ間、私は恐怖に怯えた。今、癌などに罹っている場合ではない。私はもっと娘に授乳したい。そして娘の人生をもっと見たい。娘がどんな人生を歩むのか、できるだけ長く見届けたい。無邪気に私を見つめる娘の目を見たら、涙が溢れて止まらなかった。
不覚にも、癌かもしれない状況に置かれて初めて私は母である実感を覚えたのである。
幸い、検査の結果はシロだった。癌ではなかった。そしてこの一件以来、私の娘に対する考え方は変わった。いつか娘が親元を離れていくことには変わりはない。もしかしたら、それ以前に私がこの世からいなくなるかもしれない。それならば、一緒にいる間はうんとそばにいようではないか。抱きしめたい時に抱きしめ、キスしたい時にキスし、その後の彼女の人生の糧となるような濃厚な娘との思い出を作っていきたい。そう思うようになったのである。
娘はこの春無事に一歳を迎えた。私も親として一歳である。完璧な母親を目指す余りついつい肩に力が入りすぎる時もあるが、何より娘と過ごす毎日が楽しい。娘を見ると「私の子供でありがとう」と言わずにはいられない。一年前の冷めた母の姿はどこへやら、今では毎日娘にキスの嵐である。
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私は今年の4月から実家を離れ一人暮らしを始めました。高校の同級生のほとんどが地元を離れていく中、私の母はなかなか一人暮らしを許可しようとはしませんでした。「お母さんは、あなたが泣いていると思うと悲しいの。一人暮らしで苦しい思いをして、泣いていると思うと、心配で苦しいのよ。」そんなことさえ恥ずかしみもなく言う母に私は鬱陶しさすら感じていました。実際に一人暮らしを始めてみると、確かに慣れない環境に戸惑い不安になることもありましたが、いつも私の行動を規制していた母の存在がないことは私を自由にしてくれました。一人暮らしを始めた最初の3週間は、毎日母から朝と夜にメールが届いていました。内容は「何を食べているか」「体調はどうか」などやはり私を心配する内容がほとんどでした。大学での生活に慣れて、深夜に及ぶバイトも始めたころになると、送られてくるメールに返すことも疎らになってしまいました。そんな私に対し母も徐々にメールを送らなくなりました。
そんな生活が続いたある日。一人でバスに乗っていた時のことです。通路を挟んだ反対側に赤ちゃんを抱いたお母さんが乗ってきました。まだ言葉もよくわからない赤ちゃんにお母さんは優しい声で話しかけ、頭にキスをしたり、窓ガラスに映る景色や自分の姿で遊んだりしていまいした。そんな様子を見ていた私の目からは、不思議なことに涙が出ていました。赤ちゃんとお母さんが、自分と母に重なったのです。約20年間も愛情を注いできた子供が、自分から離れて行くことなんて、どんな親でも辛いことだろうに、自分の親だけ特別で異常だなんて考えていた。そんな自分を恥ずかしく思いました。そして、母がメールを送らなくなった時の心境が痛いほどに伝わってきて、切なくて、苦しくて涙が止まりませんでした。
バスを降りてすぐに私はメールを一通送りました。「久しぶり、メール送らなくてごめんなさい。いつもありがとう。」親不孝な娘からの久しぶりのメールに「いいよ。わかってくれたのね。」とまるで私の心境を理解したかのようなメールが届きました。母の偉大さを感じました。「流石だな」母が嫌いな泣き顔が、笑顔に変わった瞬間でした。
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「よちよち、愛おしい~愛おしい~」
そう言いながら、毎晩、娘の背中をさすりながら寝かしつける。
安心するのか、娘はいつの間にか寝息をたてる。
そうしてかれこれ3年が経った。
今年から保育園に入園して、娘ももう3才になったのだ。
私もママ3年生だが、母親として進級できる資格を得ただろうか...
ときには、イライラして感情のまま娘を叱ってしまったり、
娘との約束を忘れてしまったり...
あげくの果てには、「今日はママのご飯より保育園のご飯の方が
美味しかった!」と言われ、手抜き料理がバレバレになってしまったり。
何か母親落第生だな...「よちよち、ごめんね、ごめんね、こんなママで」
と心の中でつぶやきながら、背中をさすっている晩もある。
ある日、いつもの様に「ママ、背中よちよちしてえ」とせがまれた。
さすりながら「よちよち、そうだアンちゃんはいつも神様にお祈り
してるんだよね。(娘はミッション系の保育園に通っている)ママもお祈りしよう!
神様、お願いです。どうかアンちゃんが幸せになりますように...よちよち...」
すると「ママのことはお祈りしないの?」と娘。
「ママのことはいいんだよ、アンちゃんが幸せになれば。」
私がそういうと、「じゃ、わたしがママのことお祈りしてあげる!神様!
どうかどうか、えっと...えっと、ママが幸せに...あの...なる!」
娘の祈りは、すぐ神様に届いた!
そんなこと言えるようになったあなたをママは誇りに思うよ。
とーっても、し ・あ・ わ ・せ!
神様ひとつだけ私自身のお願いきいて...
「娘の母親として、どうか進級させてください」
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ともかく悪戯やわがままでみんなを困らせる腕白な次男をこらしめてやろうと、「お兄ちゃんは、お母ちゃんの言うことちゃんと聞くんやけどなぁ。恭佑は橋の下のみかん箱に捨てられてたんかなぁ。こんな子はお母ちゃんの子と違うわぁ」とついつい言い過ぎてしまったことがある。次男はふくれっ面のまま自分の布団にもぐり込んだ。まさかこんな冗談を信じるとは思わなかったので、私はまあいいかって軽い気持ちで気にもとめなかった。
次の日の朝、目覚ましの音に体を起こすと手首に何かしら巻きついている。よく見ると縄跳びの縄が私の右手にぐるぐると巻きつけられていた。そしてその先は、いつの間にか私の隣で寝ていた次男の左手首に巻きつけられてあった。そして寝顔には涙の後がくっきり二筋・・・。
きっと捨てられると思ったのだろう。自分の迂闊な暴言で子どもを傷つけてしまったことにはっとした。寝顔はまだまだあどけない五歳の男の子なのだ。(ごめんね、ごめんね・・・)
しばらくして目覚めた次男は開口一番、「ぼくもお母ちゃんの子どもやもん」と言うので、「当たり前やん。お兄ちゃんも恭佑もずっとずっとお母ちゃんの子どもやで。」
次男は嬉しそうににっこり微笑むと脱ぎ捨てたパジャマをぽーんとほおり投げた。すると見事に花瓶に命中。
(あぁあ。やられたぁ!)
でも・・・今回は大目にみてやるか!だって落ち込むのも激しいが、立ち直りの早いところは私とそっくり。仕方がない。やっぱり親子なんだから。これからもずっとずっと親子なんだから。
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子供の言葉は謎だらけ。大人が予期しない不思議な言葉を駆使して大人を混乱させる。どうしてそう言っていたのか、言葉をしゃべり出したばかりの頃の息子をそのまま大人にすることができたら、聞いてみたい言葉がある。
それは、「にゃんここ」。今年中学生になった次男が幼い頃使っていた言葉なのだが、「ネコ」のことでも、「なんのこと?」がうまく言えなかったわけでもない。
実は、お母さんのこと(私の妻のこと)を、「にゃんここ」と呼んでいたのだ。おなかが空いた時も、何かを見つけた時も、スーパーヒーローを呼び出すように「にゃんここ」とお母さん(私の妻)を呼んでいた。何年か前、小学生になった次男に聞いてみたら、予想通り全く覚えていなかった。
どうして「にゃんここ」? 私はこの謎を時々思い出し、時々楽しいモヤモヤを抱えて日々を過ごした。
子供は大人をまねしながら言葉を覚える。それがうまく言えないから楽しい。例えば、エレベーターを「えべれーたー」と言ったり(エレベーターでエベレストを昇る人みたいだ)、「電子レンジ」を「でんちでんち」と言ったり(乾電池で動いていると思っているのかも)、楽しい言葉に変換してくれる。
妻の名前は「かず子」。語尾は合っているが、「かず子」と「にゃんここ」では違い過ぎる。「にゃんここ」に似た言葉で妻を呼んだこともない。では、どうして「にゃんここ」?
そんな時、ふと頭に浮かんだことがある。そういえば、妻のお母さん(おばあちゃん)は、妻のことを「ねえ、かず子」や「なに、かず子」と、必ず頭に何かの言葉をくっつけて呼んでいた。これが「にゃんここ」になったのなら…。あくまで想像だから違うかもしれないが、この発見に、モヤモヤが多少晴れ、晴天とはいかないが、時々晴れくらいにはなった。
何はともあれ、子供が持っている特殊な言語変換装置は、私達大人をとても幸せな気分にしてくれる。
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「絶対結婚なんてしない。」
そう思い続けていた青春時代。外面のいい父は、家では些細なことで母を怒鳴り散らす半面、外では年上の女性に可愛がられる性格だった。母が人前でけなされる姿を許せず、男性コンプレックスから結婚コンプレックスにつながっていった気がする。
しかし、歳月を経て、気づけば自分も結婚し、2児の母に。そして、夫はうつ病に。病気のせいか、些細なことで怒り、感情のコントロールができなくなる。物を壊す。
「何だか父さんと似てる。同じような人と結婚したね。」と母と話したものだ。そして、父は夫のそんな姿をみて、「まったくあいつはしょうがないな。」と、怒っていた。
時を同じくして、父はがんを発症。肺から転移してがん性髄膜症に。薬が効かなければ余命2-3カ月と診断された。脳に影響するので、ぼけてしまう可能性が高いとも。
見舞った病室で、父がぽつりと言った。
「うつ病っていうのは、神経の病気だろ。気持ちが自分の思うようにならないんだよな。自分が病気になってみてわかるけど、かわいそうだな。今までつらく当たって悪いことしたな。」
その時から、何だか父に対するわだかまり
がすっと消えていった。
幸い、まだ抗がん剤が効いてくれているが、副作用に苦しむ様子は見るに忍びない。残り少ないであろう、共に過ごせる時間を大切にし、親孝行したい。
「結婚なんて絶対しない。」と思っていた私も、今では「子ども達は宝物。結婚してよかった。」と思っている。照れくさくてなかなか言えないけれど、近々ちゃんと、「父さん、ありがとう。」って言いたい。
神様、私たち親子に最後の時間を与えてくださって、ありがとうございます。
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母は社交的という言葉が良く似合う。なぜか昔から友達が多い。というより現在進行形で友達が増えていっている。
普段は地元の小さな病院で受付の仕事をし、午後は家事の傍ら自分の時間を持っている。
今までも様々な習い事をしてきた。絵画、造花、ジム、お茶、ビーズ・・その都度友達を増やしてきた。
そんな中、50代後半で新たな習い事を始めた。ピアノだ。
始めた理由は「楽しそうだったから。」簡決である。
それからというもの、暇を見つければ練習しピアノの話題が出ることも多くなった。
この曲は弾いていて元気になるとか、今日は指が軽いとか、母は幸せを見つけることが得意だった。
一度だけ、母の練習を見に行ったことがある。私と同年代の女の先生に教えてもらっていて、「今日は娘も見に来ました!」と普段より少し高めの声をあげた。
椅子に座って楽譜を開き、少し緊張の面持ちで奏で始めたその音は、たどたどしくて危なっかしい。楽譜と指を交互に見て、時たま音にペダルを合わせ、慌しい動きに頭と体が反応し切れていないものだから、ブリキのおもちゃが動いているようにぎこちない。
お世辞にも上手いと言える演奏ではなかったが、先生に「前より随分上手になりましたね」と言われ、恥ずかしそうに笑う母はたまらなくいとおしかった。
こうして母の授業参観は幕を閉じたのだが、母は先生の言葉を励みに、「今日は3時間も休まず弾いちゃった」とヤル気を目下継続中だ。
母を少し弁護しておくと、父の帰る時間にはいつも温かい夕食を準備している。ご飯の他におかずは3品。2品にしないところが母の感謝の気持ちらしい。家事には一切携わらない父だが、「その分お父さんには好きなことをさせてもらっているから」とあれはあれで上手くバランスがとれているようだ。
もう少し、我が家のピアニストを見守りたいと思う。
もう少し上手くなったら私の結婚式のBGMよろしくね。
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私の両親は共に昭和の初めの生まれ。子どもの頃は戦争で空襲の中を逃げまわり、戦後は
復興期の貧しかった時代に青春を送った世代だ。贅沢も知らず、懸命に歯を食いしばり、そして
生きてきた。私の父は祖父が早くに倒れたため、中学2年からほとんど学校にも行けず、大人た
ちに交じって働いた。一方の母も勉強好きで高校を夢見たものの、大所帯の長女のために進学
を断念し、遠くの紡績工場へ集団就職の一人として行かねばならなかった。
その二人が結婚し、私を頭に一男二女をもうけ、必死に育て上げてくれた。そのおかげで三人と
も高校、大学、大学院とそれぞれの望む道に進むことができた。幼いころから見てきた両親の姿は
常に働く姿だった。まるで馬車馬のごとく休むことなく、ひたむきに汗を流していた二人の姿が今も
私の心には焼きついている。それでいて、父も母も働けど働けどの苦しい家計をやりくりしては、家族
旅行などにも連れていってくれた。今でも覚えているのは狭い我が家に不釣り合いな文学全集が並
んでいたこと。それは私たち子供に本物の名作を読ませたいと両親が買ってくれたものだった。
今にして思えば、その全集はそのまま二人の私たち子どもに対する愛そのものだった。おかげで、
私も妹二人も本を読むのが大好きになり、私は現在高校で国語教師をしている。大きな本棚にぎ
っしりつまった全集はそのまま馬車馬のように懸命に働いた両親の心がつまった特別な存在だった。
そして今、両親は80近くになった。父は脳梗塞、母は心臓を病み、夫婦で支えあって生きている。
もうかつてのように連れ立って旅行に出かけることもままならなくなってきたが、両親が与えてくれた
ものは私の中で消えることがない。馬車馬のごとく働く両親を見て育ったせいか、私も働くことが好き
で、休むことは嫌いになった。働くという言葉には「傍(はた)の者を楽にする」という意味があるという。
両親の働く姿はまさにそうだったなと今しみじみ思う。
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私がまだ小さかったころ。自転車にうまく乗れたことに有頂天になり、大きな国道の向こうにある友達のマンションまで一人で遊びに行ったことがある。親は共働きで、誰にも言わず出かけた。
季節は冬。友達と二人、夢中になって遊んでいると、いつのまにか日が暮れ、門限もとっくに過ぎていた。
「お母さんに怒られる!」
慌てて飛び出したものの、真っ暗な道は分からない。夜の国道はまぶしいライトが飛び交い恐ろしかった。自転車の弱いライトを頼りに、行きはビューンと下った坂道を、ヨロヨロと上った。
やっと見知った通学路まで戻った時に、このへんでは珍しい雪が降り始めた。タイヤが滑り、転んで涙が出た。声を殺して泣き、かじかむ手で自転車を押した。門限破りの言い訳も頭から消え去り、長い長い時間、歩き続けた気がした。
とうとう家の前までたどりついた時、父も母も、祖母も祖父も庭に集まっていた。
雪をかぶった私は、母に飛びついて、おおーんと大声で泣いた。母は「ばか、ばか」と小さい声で泣き、抱きしめてくれた。
普段は甘やかすこともなく、どちらかと言うとクールな子育てをしていた母。雪の中を迷い帰ったこの夜と、大好きだった祖母が亡くなった朝の2回だけ、私をぎゅうう、と抱きしめてくれた。20年経った今も、腕の強さと小さな声を忘れられない。
母と同じく働くママになった私は、あの時「ばか、ばか」と呟いた母の気持ちが痛いほどわかるようになった。お調子者で向こう見ずな娘も「ばか」だし、仕事で家を空けていた自分自身も「ばか」と責めていたのだと思う。
お母さん、ごめんなさい。私の心がお母さんに追いついて、やっとわかったよ。抱きしめてくれて、ありがとう。
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私は大学生になって、家族と離れ、神戸で独り暮らしをしているのだが、このあいだの休日に北野の異人館を訪れたとき、父とのある忘れ難いエピソードが、ふと頭に蘇ってきた。
私が中学1年生の時の出来事である。家族で神戸に旅行に行った時のこと、昼食を食べに入った店で、私はハンカチをなくしたことに気がついた。どうやら異人館からの帰り道で落としてきたらしい。その日は雨が降っており、しかも場所は、観光客で賑わう神戸・異人館。私はほとんどあきらめかけていた。しかしその時、父は私に言ったのだ。「探しに行こう。」
その一言で、父と私は、それまで下ってきた坂道をまた上り始めた。父が真剣な顔をして辺りを見回しながら歩いている隣で、私は複雑な気持ちでいた。ハンカチが見つかるのなら、それに越したことはないが、いつどこで落としたかもわからないのだ。見つかる可能性は極めて低い。それでも父は、私たちが訪れた場所をひとつひとつ、隅々まで探し歩いた。私も、しだいに父の真剣さに押されて、一緒に探した。しかし、ハンカチはなかった。さすがの父も諦めたようだ。父と私は、またもと来た坂道を、下っていった。2人の間に、交わす言葉はなかった。しかし、私がうつむいていた顔をふと上げた、その時だった。父の隣で私は叫んだ。「あった!」
私の目の高さにあった店の看板の上に、私の落としたハンカチが、きれいにたたまれて置いてあったのだ。誰か親切な人が拾ってくれたのだろう。その時、それまで黙っていた父が口を開いた。「ハンカチをなくしたまま岡山に帰ったら、よく探さなかったのを絶対後悔する。そしたら神戸の旅行が、ハンカチをなくした思い出にしかならないかもしれん。でも見つからなくても、一生懸命探したらあきらめもつくし、パパと一緒に探したことが思い出にも残ると、パパは思ったんよ。ハンカチ、あってよかったな。」
このとき私は、父が私のハンカチを探しに行くことにこだわっていた理由を、ようやく理解できた。ハンカチが見つかるかどうかは、父にとっては二の次だったのだ。私は、ハンカチがあったことよりも何よりも、父の気持ちが、嬉しかった。
あの日雨の中、2人で歩いた坂道をひとり歩きながら、私は父を想った。
毎日新聞社賞MOTTAINAI傘
男二人兄弟の末っ子である私が生まれて3日が経った時。新生児が罹るある特有の病気により、体内の3分の2近くの血液を口から吐いた。一時は危険な状態まで陥ったが、それを救ってくれたのが親父だった。
親父の血を体いっぱいに継いだ私は、笑ってしまうほど性格が親父と似ている。
普段から声が大きく、態度も大きく、ただ黙っているだけで、怒っていると勘違いされることもある。とっつきにくくて怖いというのが第一印象。けれどそんな見た目とは裏腹にとても涙もろく、情に厚い。もはやそれは厚いという表現よりも「厚すぎる」という方が正しい。困っている人がいると何の躊躇も無く手を差し出す。それによってトラブルに巻き込まれることもしばしば。
そして何より驚くのは、トイレに行こう、お風呂に入ろう、お茶を飲もう、そこのおかずを食べよう、などなど。そういったタイミングがことごとく同じであるということ。だから私は親父と一緒にいる時、何か行動を起こす前に少し待つ癖がある。そしてその「待つ」は概ね当たる。私の動きたい方向に親父が動く。そして私はその後、動く。まるで双子のような関係が出来上がっていった。
思春期の頃、そんな親父との関係がとても嫌で近寄らなかった。話しかけることもなければ挨拶すらろくにしない。一度離れてしまうともうどの距離で接していいのか分からず、そのまま私は大人になり、結婚した。
子どもが生まれた時だった。私の妻が命を懸けて産んでくれた赤ちゃんを初めて抱いたとき、私は号泣した。そして妻に、ありがとうと言った。次に親父が抱いた。すると、親父も号泣し、ありがとうと何度も妻に声をかけた。妻が泣きながら言った。
「喜びが倍になったね」
今までの人生でどれだけの喜びが倍になり、どれだけの悲しみが半分になってきたのだろう。初めてそう考えた。そして、親父との距離が半分に縮まった。
毎日新聞社賞MOTTAINAI傘
もうすぐ2歳になる息子と、あと3週間で産まれてくる予定の赤ちゃんがいる。
まだまだ小さな二人の子供。そんな二人が成人したら渡したいものがある。それは日記だ。
12年前の成人式前夜、父から2冊の古びたノートを渡された。そこには私を思って書いてくれた父のメッセージがびっしりとつづられていた。
「やったー!俺の子どもができた。どうやらこの夏に父親になるらしい。俺も父親になる」という、ことばから始まった。
生まれた時の感動、1歳の誕生日までにどんなことができたのか、2歳になるまでにどんな言葉が話せるようになったのかが細かく書かれていた。また、成長を心から喜んでくれて、かわいがってくれて、時には厳しく叱ってくれたことも蘇ってきた。初めて私の頬をぶった時「夕香も泣いていた。
殴った俺の手も痛かった。心も痛かった。良識ある娘に育ってほしいからぶつんだ」と、悲痛な叫び声も聞こえてきた。小学6年の夏休みの宿題は、習字だった。苦手な私に書道部だった父は根気よく教えてくれた。何時間書いてもうまくいかなかった。「もうやめる。宿題は出さない」と、言った私に父は「あきらめるな。必ず書ける」と励ましてくれた。ようやく満足できる字が書けた時、嬉しくて泣いた。「良かったな!あきらめなかったから書けたんだ。継続は力なり」と、日記に書いてあった。
日記は涙で濡れ、全部読むのに3日もかかってしまった。読み終わった後父に「ありがとうパパ。日記、大事にするから。そして私も母親になったとき、子供たちに日記を渡そうと決めたよ。ありがとう本当に」と、やっとお礼が言えた。
父に教えてもらったたくさんの愛情。私も、息子とおなかにいる赤ちゃんに日記を書いている。
毎日新聞社賞MOTTAINAI傘
「今度スカイツリーできたら連れて行ってあげるよ」
そう言ってきたのは17歳になる末の息子だった。私は「連れてってもらうほど歳とってないぞ」と思ったのだけれどやはり嬉しかったのだ。
思い返してみれば母が東京に出てきた頃、一緒に東京タワーに登った。こんな高い建物に登ったのは初めてだと喜んでいる母を見て、こんなに無邪気に喜ぶ一面もあるのだなと新鮮な気持ちだった。東京の大学に進学すると言ったとき、その背中を押してくれたのは母だった。学費も一生懸命働いて払ってくれた。面と向かって感謝することもできず、私がした親孝行と言えば、東京タワーに一緒に登ったことくらいだった。
その母も東京タワーよりもっと高いところへ行ってしまった。もう会うことはできない。でも息子がその東京タワーより高い、東京スカイツリーに連れて行ってくれる。そんな息子を母のなるべく近くに連れて行くことができる。息子を母に見せることができるかもしれない。もしかしたら母に最後の親孝行ができるかもしれない。
今なら素直に言える。
おかあさん、ありがとう。
そして息子よ、ありがとう。
エプソン賞プリンター Colorio E-600
私のお腹に住んでいた子を紹介しましょう。
滞在期間は33週4日、体重2220グラム、身長
46.9センチの、とても元気な男の子でした。
一緒に絵本を読んだり、花を見に出掛けたり、
美味しいものを食べたりして、楽しみました。
そして、私のお腹から、外の世界に出たも
のの、目を開けることはなく、空気を吸うこ
ともなく、違う世界へと旅立ったのでした。
ですから、私たち親子のアルバムは、これ
以上増えることはありません。わが子との写
真は、子どもの部屋でふくらんだお腹でいる
私の写真と、目を閉じて何か言いたそうな子
どもと私の写真です。
初めは、心残りがたくさんあっただろうに
と、不憫で仕方ありませんでしたが、1年経っ
た今、私が思うのは、「心残り」ではなく、
「心残し」をしてくれたのだということです。
写真は少ないけれど、思い出も少ないけれど、
その1つ1つを大事に思えるように、感覚や
イメージ、そして心に、アルバムを残していっ
てくれたのです。決して消えることのない、
私たち親子の、こころのアルバムです。
親子の日賞珠洲市特産珪藻土コンロ大判
小三の娘から『とある提案』があった。いいや、とらえかたによれば『果たし状』ともとれる。この対処のいかんによっては、これまでの育て方が否定され、今後の親子関係をも大きく揺らぐことになる。
コマ回し・二重跳び・竹馬・逆上り・クロール。娘は、これまでに多くの壁をクリアした。スポ根番組育ちの昭和型父親のコーチングのもとで。自ら手本を示す→もがいていると「頑張れば出来る」「努力だ」と叱咤激励の嵐→娘の半べそ。この過程は必須である。そして、次なる壁は『一輪車』だった。私の子供の頃は無かった。手本も示せない。それでも、練習法やコツを調べ、さも偉そうにコーチング。あきまりの叱咤激励の嵐と半べそ。黙々と取り組む娘は、この壁もクリアした。多くの日々を費やしただけに、喜びはひとしおだ。もちろん私も。
「よくやった!諦めずに頑張っていたもんな。お父ちゃんの言うとおりだろ。」
「うん。」
感動の結末である。しかし、続きがあった。
「お父ちゃんも、やってみて。努力すれば、出来るよ。」
「エッ!」
毎日5分の努力と継続の日々が始った。昭和型父親なので、『血と汗と涙の取り組み』は、あえて伏す。2カ月が経過し、公園の子供たちが興味を示さなくなった頃である。"ふわっ"と全身にきた。"スゥ~"
「やった!」
この感覚は、あの頃のものだ。娘と同じ感覚を共有したのだ。親としての姿勢を示すことが出来たと1人ゴチになり、美酒に酔う。
「今度は、親子で大技、メリーゴーランド」
数カ月後、娘は器楽部に入部し、アコーディオンと格闘することになる。これには、鬼コーチの出番は無い。これ以降もだろう。この壁は、異なる意味で越えるべき壁だったに違いない。子は、1まわり成長した分、親との距離は、2まわりも離れていくように感ずる。しかし、どこまでも伸びてゆき、決してちぎれることのない、見えない糸を紡いでいきたい。