親子の日 エッセイコンテスト2009 入賞作品

オリンパス賞
・オリンパスμ_Tough
・Olio photo クーポン
トリニティーライン賞
毎日新聞社賞
エプソン賞
「親子の日」賞
・スーパーフォトセッション
 参加権
・arpCD
 
 
オリンパス賞オリンパスμ_Tough
僕の父大江幹悟(佐賀県・高2)
 僕の父は、画家だ。画家ときいても全然ピンとこないかもしれないけれど、文字通り絵を描く仕事だ。それを売ることで生計を立てている。
 僕はずっと、父にはもっと一般的な仕事をしてもらいたいと思っていた。友達の家のお父さんは毎日朝早くから働いているのに、僕の父は朝は遅いし出かけるのも週何回かの絵画教室で教えるときぐらい。絵があまり売れないと収入が少ないので、ぜいたくもあんまり言えない。さらにその描いている絵が抽象画だから、父の絵の良さが分からなかった。
 僕は音楽を聞くのが好きだ。音楽を聞くと、歌詞やメロディーそれぞれから、作った人の想いや、いろんな情景が浮かぶ。時には、元気づけてくれたり、感動させてくれたりする。しかし中には、売れるように売れるようにと、作られているような曲もある。そんな曲からは、上辺だけのものしか伝わってこない。
 絵も同じだと思う。人に買ってもらうためだけに描いたような絵には、
「上手い絵だなぁ。」
ぐらいの感想しか持てない。自分の想いを純粋に表現している絵には、たとえ多くは売れなくても、それを見た人に様々な想いを抱かせるだろう。
 僕は最近になってやっと、父はそんな絵を描いていることに気がついた。父の絵は、皆に受け入れてもらえるような絵ではないと思う。でも父の絵は、色使いや筆の動きそれぞれから父の想いが伝わってくる。そんな絵だ。僕が生まれる前から現在まで、ずっとその絵は変わっていない。自分の想いを純粋に表現し続けている。そんな父の姿を、初めて心から誇らしく思った。
 今では、父の「画家」という職業を大いに自慢できる。
 
オリンパス賞Olio photo クーポン
父の涙榊隆也(東京都・49才)
 昨年の夏のことだ。
 自宅近くの大きな公園で、小学校六年の双子の息子たちが、友人たちとサッカーに興じていた。半袖の子供たちは元気いっぱい。みんな夢中で走り回っている。
 やがて、双子の下の子から「お父さん、レフェリーやって!」と声がかかり、木陰のベンチにいた私は「おう」と重い腰を上げた。
 その時である。私は何の脈絡もなく、あの日の出来事を、突然、思い出したのだ。
 四十年近くも前の、土佐の夏。
 息子と同年齢だった私は、自転車で外へ出た。いつもの遊び場とは違う、繁華街へ。途中で友人二人が合流し、目的地では、さらに友人が増えた。そこへ、父がやってきた。行き先を母に聞き、列車で二駅分を先回りしたのだという。そして、父はみんなに言った。
 「みんなあ、きょうはどうする? おじさんと一緒やったら、ゲームセンターも行けるで。それか、冷たいもんでも飲むかえ?」
 ところが、私は次の瞬間、「お父ちゃん、帰ってや。きょうは僕らだけで遊ぶがやき。帰って」と言ったのである。しばらく、問答が続いた。戸惑う友人たちをよそに、私は「帰って」と言い続け、やがて父は帰った。結局、何をして遊んだのかの記憶はない。
 夕方、自宅に戻ると、母に呼ばれた。父の姿はない。
 「あんた、何を言うた? お父ちゃん、泣きながら帰ってきたぞね。あんなに悲しそうなお父ちゃんは見たことない」
 母は静かにそう語り続けた。
 反抗期の始まりだったのかもしれない。自分たちだけの世界に大人が来ることがいやだったのかもしれない。もしかしたら、説明できる理由などなかったのかもしれない。
 私は、あの夏の父と同じ年齢になった。
 サッカーに興じる子供たちを前に、突然思い出した「父が泣いた」という母の言葉。私は急に悲しくなった。過去を悔やんだ。そして「レフェリーやって!」という声の方に歩きながら、不覚にも涙し、子供たちがにじんで見えた。
 
オリンパス賞Olio photo クーポン
母九十三川村 均(神奈川県・62才)
 四畳半程度だったが、小松菜やほうれん草がとれ、トマトやナスを育て、シソやミツバが食べられる家庭菜園は魅力に溢れていた。
五月の陽光を浴びながら、夫婦で虫や草をとり、若苗の間引きなどをしていると、
「雑草を恐れるな」、突然、二階のベランダから母の声が降りてきた。御歳九十三、認知症が少し出ているが、しゃきっとしたもの言いに、「分かった」と見上げながら答えた。
「まだ本当の百姓ではない」、私の手つきや野菜の育ち具合いを見てのさらなる声。
「野菜は同じところに作るな」、忠告も飛んでくる。
「はいはい」と返事をしながら、久々に力が入っているのを微笑ましく思った。
五年前、調子が少し崩れかかったときには、猫を飼って凌いだ。母が生きていく上で必要なのは、日々の具体的な世話と思いやる心を取り戻してもらうことであったから。
「畑をやればまだ長生きしてもらえるかも」と妻が言うので、「降りてきて畑をやらないか」と大きな声で誘ったら、「それは無理」と小さく言って顔を引っ込めてしまった。
 信州の農家出身の母。その母のもうひとつの口癖が、「あの山の向こうに行けば田舎がある」だった。山とは、ベランダから見える小高い公園の雑木林だった。
父が亡くなって二五年。この頃、母の気持ちはさかんに実家へと向いている。
父が今わの際に残した「ふるさとに足を置いて原石を探せ」のメッセージや、小説「夜明け前」で知られる島崎藤村五〇歳のときの「人は幼少期と老いてからの二度木に近づく」の言葉。ふるさとや木を「魂の休まるところ」と理解すると、母の心情がよく理解できた。
以降「体調、体力を見て実家へ母を連れて行こう」が我が家の合言葉になった。親子の日なら最高、母の日、誕生日など、記念の日の実行可能性を探る日々を送っている。
 
オリンパス賞Olio photo クーポン
調子乗りのおっちゃんこじまさおり(兵庫県・21才)
 私の父は近所の子どもから「調子乗りのおっちゃん」と呼ばれている。
父は出勤時に登校中の児童にむかっておどけてみせる。それが子ども達のツボにはまるらしく、みんな笑い転げるのだ。同級生から「おまえのおっちゃん、ほんま調子乗りやなあ」と言われるたび恥ずかしかった。しかし辞められることはなく、休日は私の知らない所で近所の男の子と遊びまわっていた。
ある日角道を曲がると「ぐわあぁぁ」と叫びながら倒れる父と目が合った。父の目からは切羽詰った様子が伺え、私はうろたえた。しかしふと前を見ると戦隊もののおもちゃを手にした少年たちがいる。私は状況を察知し、差し出そうとした手を戻した。父は戦隊ごっこの悪役をしていたのだ。父の切羽詰った様子は、いるはずのない娘と目が合ったこと、しかしクライマックスの悪役が倒れるシーンを全うしなければいけないという責任感の挟間から生まれたようだ。父は私が大人になっても喜々として近所の子どもと遊んでいた。私は父の行動を諦めていたが、やめて欲しい気持ちはおさまらなかった。
そんな父が癌の告知を受けた。本人は手術を拒んだが、幸い転移もなかったので癌を摘出すれば短期間で治療可能、再発も無いとのことだった。家族全員で摘出を勧め、父は文字通り泣く泣く承諾した。陽気な父が泣くのを見たのは初めてだった。
手術の日、私は施術後に立ち会えた。運ばれてきた父は薄く麻酔が効き、目は半開き。ドラマで見るような薄いブルーの布が胸までかかっていた。その父の前で主治医から成功した旨と今後のことが伝えられた。ふと父に目をやると、信じられない光景があった。麻酔で眠っているはずの父の手がいつの間にか布から出て、ピースサインになっていたのだ。その場は笑いに包まれた。父はいつでもどこでも「調子乗りのおっちゃん」だった。意識がほぼ無かろうが、家族に大丈夫だと伝えようとして動いた手。その温かさに笑っていた目から涙がこぼれた。
今はまた「調子乗りのおっちゃん」と化しているが、私はもう辞めてとは言わない。父がなぜおどけてみせるか分かったから。
 
トリニティーライン賞
父の手紙橋本多加(和歌山県・44才)
 7年前に母が、続いて3年前に兄が亡くなった。それまで自由気ままに結婚もせずに遊びまわっていた私も、さすがに一人実家に残った病を抱えた父を思い、約20年ぶりに実家のある田舎町に帰った。
 母が健在の頃から、両親と、お酒を浴びるように飲む兄との仲は、しっくりいかなかった。そして母がクモ膜化出血で倒れ、約2ケ月半の闘病の末亡くなった後は、父と兄の関係は修復しがたい程にこじれていった。母の死を自分のせいだと自らを責め続ける兄には、お酒以外に逃げ場が無かったのかもしれない。酔って暴言を吐き暴れる兄を、父は悲しい目で見ていた。そしてそんな生活が災いして、兄も亡くなった。父は「悲しいけれど、正直ホッとした。」と私に言った。
 私は、実家に戻りしばらくたってから、母が亡くなって以来そのままになっていた、家の中の片付けを始めた。そんなある日見付けた手紙の束の中に、父から母に当てた手紙があり、私は父には内緒でそっと開いてみた。
 それは私が生まれて間もなく、父が出稼ぎ先から出したものだった。内容は、「たまにしか会わないので、子供たちが自分の顔を見て泣きだしたのがショックだった」とか、「早く一緒に暮らしたい」とかたいした内容では無いのだけれど、家族に対する愛情が溢れていた。
私は涙が止まらなかった。兄が生きている間に、ひと目見せてやりたかったという気持ちで、胸が一杯になった。仏壇の隅に父の目にふれぬようにそっと手紙を置き、心の中で「兄ちゃん、私たちはこんなにも愛されて育ちました。」とそっと呟いてみた。
 そしてその父も昨年亡くなり、私は本当に一人きりになってしまった。でも今これを書いている間も、私の前には3人の写真が有り、今も3人からの愛情を感じている。
 
トリニティーライン賞
無題実里(石川県・14才)
似ているようで似ていない!似ていないようでいて良く似ている親子の関係、私とお母さんは全然似ていないもん、お母さんみたいに私おなか出てないし~、そう言って私は母のお腹を摘む、えーいうるさい私だって若い頃はナイスバデーィだったんだからと母は言う、今の母は昔の面影も無く、ナイスバデーとは程遠い容姿をしています。それでも同じ年代の母と比べると少しは若くて?綺麗で?スタイルもいいかも?タンスの中にしまわれている母の若い頃の洋服を私は引っ張り出して着てみる、ウエストは確かにわたしの今よりも確実に細く足の長さも今の私と変らない、センスだって悪くは無い、母の昔のアルバムをこっそりと開いてのぞき見た時も、古いアルバムの中にはじけるような母の若くて生き生きとした姿が写っている、知らない人が見るとわたしの写真と見間違うほど今のわたしの顔にそっくりです。だからこそ母と似ている自分が嫌いです、25年後の自分の姿が家の中をノシノシ歩いていると許せません、私は絶対にお母さんみたいにデブにならないもん、お母さんと私ちっとも似てないもん、そう言って粋がって見ても太くて短い指の形や眉の形、目の形までがそっくりです、話し方も、笑い方も、歩き方も、最近はずぼらな性格までも母親そっくりなんです、何もかもそっくりだから気が合うのか?、何もかもそっくりだから反発しあうのか?母との会話はとても楽しい母との買い物はとても好みが合う、親子であってお友達みたいな関係、それでいて頼りになる様なならない様な切っても切れない大切な存在です、わたしの人生のお手本になる人それがわたしの母です、お手本は言い過ぎかも、人生の参考になる人です、これからもよろしくね!
 
トリニティーライン賞
懐かしき過去吉田知世(佐賀県・20才)
小さい頃、私はよく怪我をしていたらしい。自分では記憶に無いが石ブロックの壁に向かって笑いながら突っ込んで行ったり、自転車の車輪に足を突っ込んで怪我したり。小さかったからいつも姉や兄と遊んでいたのだが、そこで怪我をするたび長女である姉が母に怒られていたらしい。だいたいそう言う話が始まると、昔見た、小さい頃のビデオの話になる。
ビデオには、小さかった頃の私たちが、楽しそうに遊んでいる姿が映っていた。それを楽しそうに撮り続ける母。ブランコから落ちた子供。それを楽しそうに撮り続ける母。滑り台から落ちた子供。それを楽しそうに撮り続ける母。お父さんのひげジョリジョリが嫌で逃れようと必死にもがくも逃げられずに泣き叫ぶ子供。それを楽しそうに撮り続ける母。どんなに泣き叫んでも、誰も駆け寄ってくることは無く、子供の泣き声とともに母の笑い声が聞こえていた。見るたびに「普通、親は子供がブランコから落ちて泣き叫んだら走って抱きかかえに行くんじゃないの?」と、母に問いかける。すると母は、「ちゃんと自分の力で立ち上がってほしいから助けに行かなかったのよ。それに、あの姿を見ているのが楽しかったっちゃん。」と笑いながら言った。こんな母親育てられたせいなのか残念なほどにその気持ちがすごくわかってしまった。おかげでそんな話も笑って話せるように育ったし、精神的にも丈夫に育った気がする。今では全然見なくなったビデオはホコリをかぶっていてまともに映るかは分からないが、たまに見たくなるときがある。こうやってたまに見て、たまに話すからこそ幸せだなぁと感じれる。そうするたびに言葉ではなく態度で、”自分のことは自分で解決する”ということを教えられてきてたんだなぁと感じる。時々でいいから、こんな話を笑って話し続けることができたらいいなって思う。その度になんだかホッとされるから。その度にこの両親の子供でよかったなって思えるから。誰もが思うことかもしれないけど、世界で一番幸せな家族だなって心の底から思います。笑い声の絶えないこの家族が私は大好きです。お父さん、お母さん、本当にありがとう。
 
トリニティーライン賞
手紙もりんご(広島県・43才)
 「うざいんじゃあ。ばばあ。」わかってる。本音ではないこと。反抗期だからはけ口が私に向いてること。少しは落ち着いた息子だが、ちょっと自分の思い通りにならなければすぐにこうだ。仕事から帰り、ポストをのぞいたら、鉛筆書きの一通のはがきがあった。息子からだ。こないだ、学校で野外活動に行ったときに、私が息子へ宛てた手紙の返事らしい。思わず苦笑い。誤字じゃん。これ。
そこには素直に感謝の気持ちが綴られている。最初は笑っていた私の、目の奥がだんだんあつくなり、鼻がつうんとしてきた。自分の将来の夢が語られ、そのために彼なりに頑張っていること。そして、その夢を叶えるために、「母には発射台になってほしい。これからも僕の母であり続けてください。」という一文で締めくくられていた。
そんなことを思っていたのか。どこで覚えたんだろう。あんな言葉を。まだまだ稚拙で生意気盛りだが、これが本音であってほしい。もちろん、一生母をやめることはないよ。おまえを生んだのは間違いなくこの私なんだから。そのかわり、一生私の息子でいてくださいよ。
 
トリニティーライン賞
耳たぶの思い出山﨑利恵子(埼玉県・38才)
 幼かった娘が大好きだったもの、それは私の「耳たぶ」だ。甘えたい時、眠い時、不安な時、いつだって娘は私の耳たぶを求めた。小さい温かい指で触れられると、とてもくすぐったかった。何だかほんのり心地よくなって、ついつい私の方が先に眠りこんでしまうこともしばしばあった。
 そんなある晩のこと。いつも娘の右側で寝ていた私は、たまたま左側で眠っていた。娘が動く気配で目が覚めると、娘が右側にいるパパの方に転がっていくのが目に入った。そしてパパの耳たぶを触り始めたのである。あれ?と思った瞬間、娘の手がとまり、目がはっと見開かれるのが分かった。右、左、ときょろきょろ頭を動かすと、あわてて私の方に寄ってきて、耳たぶを触り始めたのである。
 --娘は、私と主人をまちがえたのだ。でも耳たぶの感触ですぐに気づいたのだろう。安心しきった娘の寝顔を見ながら、おかしくて思わずふきだしてしまった。
 娘に耳たぶをゆだねている時は、なぜか母乳をあげていた時と同じ気持ちになれた。肌と肌が触れあう温かさ、ぬくもり。求められる嬉しさ、母としての喜び、無垢な優しさがじんわりと胸に広がっていく。
 けれども、娘は私の耳たぶを卒業してしまった。遠慮がちに触っているなあと感じるようになったある晩、触りやすくしてあげようと頭の向きを変えた時、娘の指がふと離れた。そしてそれ以来、娘の指が私の耳たぶに触れることはなくなってしまった。
 私が嫌がって向きを変えたと思ったのか?それとも卒乳の時のように、娘なりに時期を感じたのか?今だにそれは分からない。
 「耳たぶなんて覚えてないよ。」と八才になった娘は笑う。それでも、私は決して忘れないだろう。あの頃耳たぶに感じていた小さなぬくもりを。ささやかな幸せの一時を。
 --娘よ。すてきな思い出を残してくれてありがとう!
 
毎日新聞社賞
ぎこちない“親子”林 拓也(愛媛県・27才)
「背中を洗ってくれないか」
 と、お父さんに言われた。このお父さん、実は妻のお父さんである。
 僕は一瞬戸惑ったが、
「え、あ、はい」
 と言いながらタオルを構え、お父さんの背中にあてがった。
 初めてお父さんの背中というものに触れた。なんか丸っこくて大きい。そして何だかゴツゴツとしている。
 上手に洗ってあげようと思えば思うほどうまくいかない。タオルがねじれてしまう。あれ、あれ? の繰り返しである。
 今度はお父さんが僕の背中を洗ってくれるらしい。僕は静かにお父さんに背を向ける。

 お父さんは、なんていうか、加減を知らない。すごく力強くて、体についている必要なものまで洗い流されてしまいそうな感じだった。
 思わず僕は、身をよじってしまった。
「すまん」お父さんは申し訳なさそうに、「息子の背中を洗うのは難しいな」

 物心のついたころから女手ひとつで育てられてきた。
 我が家にお父さんのいないことを悲しがらなかったのは、お母さんの育てかたが上手だったからだと思う。溢れんばかりの愛を注いでくれたのでとても幸せだった。
 だけどお父さんのことを思わなかった訳ではない。
(お父さんってどんな人?)
 と考えるときもあった。
 そのとき僕のイメージするものはどれも好感の持てないものばかりだった。無口。ガンコ。厳しい。正直、「お父さんは怖い」という印象しかなかった。
 そんな僕にお父さんができたのは、僕が結婚をしたからだ。
 妻の両親――中でもお父さんは僕にとって不思議な存在だった。格好なんてつけない。不器用だけどまっすぐ。褒められると照れ隠しする。大きなお世話なことばかりする。
 お父さんの印象が変わった。

「お父さんも自分に息子ができたこと、とても嬉しく思っているよ。今まで女家族だったからね。これから息子にいっぱい何かしたいんじゃないかな」
 妻の言葉を思いだす。その何かしたいことのひとつを成し遂げられたのが素直に嬉しい。
 
毎日新聞社賞
一緒にいること、食べること西田千絵(佐賀県・15才)
 我が家の宝物。それは、一枚の写真です。誕生五日目、病院から帰ってきて初めて我が家のお風呂に入った時の写真です。父に抱かれた私、三歳の兄、七歳の姉、九歳の兄、みんなで湯船につかったカメラ目線で笑っています。撮ってくれたのは母、私がお風呂に入った後、兄や姉が、「私も」「僕も」といって、次々にお風呂へ入ってきたそうです。その写真の日から、私のこの家での、祖母を含めた家族七人の毎日が始まったのです。
 そんな七人家族の我が家で大切にしてきたのは一緒に食事をすることです。父も母も仕事を持っていて毎日忙しいのですが料理が大好き、休日の夕方は二人で台所です。兄姉が部活動で少々遅い日の夕食も、模試の日の朝食も、できる限りみんなそろって食べてきました。みんなで話したいことがたくさんで賑やか、次に話したい人が手を挙げたり、途中で突然自分の話をし始めた人を「話泥棒」と呼ぶ言葉が生まれたり、とおいしいものを食べながら笑い合ってきました。片付けはお風呂に先に入らない人で分担。昼間はちょっとぐらい嫌なことがあってもその日の夕食の時間でリセットできたように思います。
 その後、三人の兄や姉は就職や進学で我が家を離れ、今年の四月から四人兄弟の中の私だけがこの家にいます。父も母も祖母も、「静かだな」「ご飯作りすぎた」「洗濯物が減ったね」と何だか寂しそうです。私も何か足りないようなあるべきものがないような、そんな気持ちです。五月の連休に三日間だけ七人が揃いました。久しぶりの一緒の夕食、食事が終わってもずっとみんなで話しました。
 一緒にいること。食べること。家族がつながることの原点はここなのかもしれません。前を見て進んでいく力は、家族が共有する時間が与えてくれるのではないか、と今改めて家族の有り難さを思っています
 
エプソン賞
一人バーベキュー本田 千明(熊本県・65才)
 初夏の夕暮れ、となりの庭でバーベキューが始まった。子どもの声が聞こえる。
 わが家はバーべキューをしなくなってから二五年余になる。それまで賑やかだった。ホームセンターでバーベキューセット・炭・木製椅子・照明器具を購入。小学一年の息子が主賓。夕暮れを待って庭に照明器具を設置し団扇で使って火をおこす。主賓の息子は火の周りではしゃぐ。火に勢いがつくと、妻に肉と野菜、おにぎりを運んでもらう。私は缶ビールを左手に豪快に焼く。息子と妻に抱っこされた娘は椅子に座り、焼き上がるのを待って麦茶を飲む。やがて箸が次々伸びる。
 娘が小学生になると近所の女の子も加わり庭は最高に賑わった。そのうち、バーベキューの主賓が息子から娘に替わった。息子はテレビの画面が気になるのだ。焼きあがるとやって来て食べ、食べるとテレビの前に行く。それから間もなく、娘も息子とテレビを見る時間が長くなった。焼きあがった肉と野菜を前に、私の子どもを待つ時間も長くなった。パチパチはねる炭火の音を聞きながらビールを飲んでいると、妻が出て来て言った。「だれも居ないのね」と。「ウーン、一人バーベキュー」、仕方なく苦笑した。

 今、子どもたちは自立して家にいない。「父親主催のバーベキューから離れたのも自立の一歩だったのか。あれでよかったのだ」
 となりの庭で大人の声も高くなった。
 妻が台所から出て来て言った。「フフフ、一人バーベキュー」と。「そう、一人バーべキュー」私も笑った。そして、切なかった。
 
「親子の日」賞スーパーフォトセッション参加権
お母さんからの手紙岡部達美(東京都・15才)
 お母さん、覚えていますか。私が泣いていた頃のこと。今から三年前。せっかく入学した学校で、私は、先輩たちのいじめにあっていました。毎日、学校に行くのが辛くて、何度も休もうとしました。そんな時、決まって、お父さんもお母さんも、こう言いました。「きっと、楽しいことが待っている。そう思って、行こう。」
確かに、楽しいこともありました。友だちが助けてくれました。先生も、先輩たちを説得してくださいました。でも、直らなかった。
 学校から疲れきって帰って来ると、決まって、お母さんは、言いました。
「よく、頑張ったわね。偉かったよ。」
私は、正直言って、学校は、頑張って行くところではないと思っていました。
 一年が終わろうとしていた頃、お父さんが言ってくれました。「学校、転校しようか。」
私は、涙を抑え切れませんでした。でも、お母さんは、その時、こう言いました。
「嫌なことから逃げるばかりで、いいの。」
私は、寂しかった。お母さんは、何もわかっていないと、思いました。
 私は編入試験を受け、女子校に移りました。五月、郵便受けを見ると、一通の手紙が届いていました。お母さんからでした。
「達美が、先輩から意地悪されるのが嫌で、学校をやめたいって言った時、お母さん、我慢しなさいって言ったよね。お母さん、ひとつだけ気づいてほしいことがあったの。嫌なことや、自分一人では、どうしても手に負えないことが、これからあると思うの。そんな時、踏ん張ってみるの。それでもだめなら、別のことを考える。そんな人になってほしかったの。達美は耐えたわ。偉かったよ。達美は、強くなったものね。今は、いいお友だちに恵まれ、輝いている。達美、偉かったよ。」
お母さんも、私の気持ちをわかってくれていたのです。私は、両親の愛に支えられ、また、強くなりました。
 
「親子の日」賞arpCD
むすめとの約束本田 公成(福島県・48才)
最近飼いだしたミドリガメを「かわいー!」とつぶやきながらながめる娘の姿を見ていて、僕は十年前のあの日のことを思い出していた。
身重だった妻が体調をくずして緊急入院した病院から夜中、赤ちゃんが生まれそうとの連絡が入った。とるものもとらず、すぐさまかけつけると、妻は一人、ベッドにいた。「赤ちゃん、産まれたわ。」ねぎらいの言葉をかけた僕に、妻はやさしい笑顔をくれると、寂しそうな面持ちで「別のお部屋にいるの。」と言った。娘がいるという部屋の壁は一面ガラスばりになっていて、小さめの赤ん坊がこれまたガラスばりの保育器に寝かされていた。一ヶ月半も早く生まれてきた娘のカラダにはたくさんのクダがついていた。僕は、みじろぎしない赤ん坊に話しかけると、思いが通じたのか、小さなあんよをゆっくり動かし出した。それは、まるで僕に何かを伝えようとしてくれているようだった。僕はその時、娘に約束をした。
「まだ名もない君へ。君には苦しい思いをさせてしまったね。この世にやって来るのが少し早すぎた分、だれよりも楽しいと思ってもらえるよう、パパはがんばるからね。」
二重のガラスごしに伝えた一方通行の約束。娘は今年で小学五年生。毎日、元気に学校へ行き、将来はアイドルになることを夢見ていて、今では僕の一番の話し相手になってくれている。娘よ、ガラスごしに伝えたあの約束のことを君は知らないだろう。こっちもてれくさくて今さら口にできないでいる。でも、君がたくさんの笑顔をふりまいてくれる姿を見るたびに、あの約束は一方通行ではなかったのではと思うのだ。君のおかげで、ささやかでも幸せを積み重ねていく素晴らしさに出逢えた気がするから。
「生まれてきてくれてありがとう!」
透き通ったカメの水槽の向こうにすけて映る、日々、背伸びしながら大人になっていく娘の淡紅色の未来を、僕はひとり、想っていた。